【ツアー12】 吉野大夫の墓
吉野坂は、現在は舗装されていて、又、坂の入口には「ハチひげおじさんの店」の看板があるので、迷うことはありません。坂を下ると変則四叉路の手前左側に「吉野太夫の墓」の大きな看板が立っています。
遊女吉野の死については諸説あるようで、一つは斬首説(「キリシタン信者という理由で捕えられ、遂には打ち首になった」又は「勤皇の若い武士のために幕府の情報を流して斬首された」)、もう一つは水死説(「楼主の虐待に堪えかね」姿をくらまして水死しているのを発見された)など
【遊女吉野の死】
又、『食売女(めしもりおんな)』の著者である岩井伝重氏の二冊の本から「肝心な吉野大夫の記録は、ついに一行も発見出来なかった」とありますが、『食売女』は『軽井澤三宿と食売女』として1988年に増補改訂版刊行され「吉野坂」の項に遊女吉野の死にまつわる記述が追加されたことも分かりました。
【信濃追分文学譜】
又、近藤富枝著『信濃追分文学譜』(1990年刊)の「華鬘(けまん)の章」には、『軽井澤三宿と食売女』の記述を受けたと思われる、より情感のこもった記述がありますが、後藤明生氏の『吉野大夫』の小説としての魅力をより深めるのに大いに役立つものと思われます。
【死の理由】
【吉野坂】
【番外5】 ハチひげおじさんの店
吉野坂を下って、前方が急にぱっとひらけ、左手に田圃が見え始める辺りに「ハチひげおじさんの店」はあります。
全身をハチに包まれたハチひげおじさんの看板はまるで新興宗教の教祖のようで、『蜂アカデミーへの報告』の著者が見たら、戦慄を覚えたに違いありません。
【番外6】「栗とスズメ蜂」
後藤明生氏の晩年のエッセイ「栗とスズメ蜂」にも蜂の話は登場します。
それは信濃追分の山小屋暮しの最後の日の出来事。明生氏は天井付近を飛ぶスズメ蜂を発見しますが、妻に説得され、退治をあきらめます。
1997.10月に『群像』に掲載された「栗とスズメ蜂」は前年(1996)夏の話でしたが、『日本近代文学との戦い』のあとがきによると、明生氏が最後に信濃追分の山小屋を訪れたのは1999.4.29から5.10で、直後に日本経済新聞に掲載された「ふっと思い出す話」(1999.6.13)が事実上の絶筆となったとのことです。
【ふっと思い出す話】
明生氏の絶筆となった「ふっと思い出す話」 (1999.6.13)
このときは、まさか亡くなるとは思いませんでしたが、中央本線沿線の浦島太郎の晩年の地とか司馬遼太郎さんが新幹線で他人の弁当を間違って食べてしまった話が、心に沁みます。
【番外7】 特急「しなの」
「ふっと思い出す話」を受け、特急「しなの」に乗ったのは2008年5月。長野でレンタカーを借り、長野・上越・軽井沢・追分・小諸・上田などを巡りました。(写真は、帰路の特急「しなの」と車窓の風景で、4枚目が「浦島伝説ゆかりの地」2008.5.6)
【番外8】 吉野坂下から信濃追分駅へ
吉野坂下の、さらに南の「しなの鉄道」の線路を潜り、県道137号(借宿小諸線)に抜け、信濃追分駅に向かいました。(県道は小諸や岩村田方面からの抜け道のようで、交通量が多く危険なのでオススメできません。)
【番外9】 借宿、女街道
借宿の南には「女街道入口」の案内板があり、そこには「この街道はこれより本街道と分かれ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵が原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。」とあるそうです。
(続く)