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「笑坂&吉野大夫ツアー」(4)

【ツアー12】 吉野大夫の墓

わたしは左手にから同然のボストンバックをさげ、右手を外套のポケットに入れた。そして、ややうつむき加減の姿勢で坂を登った。なにしろ変則四叉路を探さなければならないのである。(中略)すると、誰かとすれ違ったような気がした。振り返ってわたしは、おや、と思った。薄暗がりの中にモンペをはいた女の尻が見えた。それから背中の薪が見えた。わたしは二、三歩歩きかけた。そのとき首筋のあたりが、ぞくっとした。わたしは立ち止まって、振り返った。しかし女の姿はもう見えなかったのである。

(Y36)
:現在は「吉野太夫の墓」の立看板あり

(立ち止まっていたわたしは坂を登って来る中型トラックを避けたのち)
すれ違っていく見知らぬ顔に、わたしはかすかな憎しみをおぼえた。そして、間もなく、それを忘れた。なにしろ、わたしが追い上げられるようにして登った石垣の上が、吉野大夫の墓だったのである。

(Y38)
吉野大夫の墓(遊女の墓石群)

足下に六つ、墓石が並んでいた。三つずつ二列になっている。この中の一つが吉野大夫の墓に違いないと思った。まず間違いはあるまいと思った。わたしはそこにしゃがみ込んだ。しかし、すぐまた立ち上って、石垣の下の道に降りた。そして、あたりを眺めまわした。
(墓石は、実際には五つと四つの合計九つでした。)

(Y38)
遊女の墓石群

吉野坂は、現在は舗装されていて、又、坂の入口には「ハチひげおじさんの店」の看板があるので、迷うことはありません。坂を下ると変則四叉路の手前左側に「吉野太夫の墓」の大きな看板が立っています。

国道18号線沿い、吉野坂の入口にある「ハチひげおじさんの店」の看板
「吉野太夫の墓」の立看板
「吉野太夫の墓 追分宿布袋屋の遊女吉野太夫が勤皇の若い武士のために幕府の情報を流して斬首されたと云われている 遊女の墓」と書かれていますが、真偽は?
布袋屋は、文久年間(1861-1864)の町割図によると、泉洞寺の向かい付近にあったようです。
(「追分宿散策マップ(追分郷土資料館)」より)

遊女吉野の死については諸説あるようで、一つは斬首説(「キリシタン信者という理由で捕えられ、遂には打ち首になった」又は「勤皇の若い武士のために幕府の情報を流して斬首された」)、もう一つは水死説(「楼主の虐待に堪えかね」姿をくらまして水死しているのを発見された)など

(川崎敏著『浅間』によると)
「吉野大夫は『ほてい屋』というはたごの飯盛女で、前身は武士の娘だと言われているが明らかでない。(中略)彼女がキリシタン信者という理由で捕えられ、遂には打ち首になったが、これは表面の理由で、おそらく粛清の波が、この遊女町を襲ったのではなかろうか。時は享保二十年(一七三五)三月十八日であった」

(Y55)

岩井傳重著『軽井澤三宿と食売女』では
「ある事情から楼主の虐待に堪えかねて、ある夜ひそかに主家をぬけ出し、闇にまぎれて何方へか姿をくらましてしまった。(中略)宿の南の草越方面に通ずる細い坂道を少し下ると、そこを十字に流れておる下の御影用水に入って水死しているのを見出した。」とあり

岩井傳重著『軽井澤三宿と食売女』

近藤富枝著『信濃追分文学譜』では、岩井氏説を受けてか、 「追分の吉野はそのひとが鄙にはまれな品格のある美女であったので、いつか大夫とあがめられたのでもあろうか。しかも彼女はある朝御影用水に入って冷くなっているのが村人たちによって発見された。」と書かれています。

(近藤富枝著『信濃追分文学譜』)

【遊女吉野の死】

又、『食売女(めしもりおんな)』の著者である岩井伝重氏の二冊の本から「肝心な吉野大夫の記録は、ついに一行も発見出来なかった」とありますが、『食売女』は『軽井澤三宿と食売女』として1988年に増補改訂版刊行され「吉野坂」の項に遊女吉野の死にまつわる記述が追加されたことも分かりました。

【信濃追分文学譜】

又、近藤富枝著『信濃追分文学譜』(1990年刊)の「華鬘(けまん)の章」には、『軽井澤三宿と食売女』の記述を受けたと思われる、より情感のこもった記述がありますが、後藤明生氏の『吉野大夫』の小説としての魅力をより深めるのに大いに役立つものと思われます。

【死の理由】

死の理由は何だったのか。隠れキリシタンがあらわれたからとも、抱え主から虐待されたためとも伝えられる。ともあれ二十二、三の盛りの娼妓が、扇屋染の帯をしどけなく半解きにして白顔に少し泥などつけて倒れている姿は凄惨でもあり哀れでもあり、美しくもあったろう。

(近藤富枝著『信濃追分文学譜』)

【吉野坂】

吉野の死んでいた辺りの地を吉野坂といまいうが、ここにかぎらず追分の土には飯盛たちの涙が道にも丘にも水車小屋にも、しみこんでいると思わねばならない。

(『信濃追分文学譜』)

【番外5】 ハチひげおじさんの店

吉野坂を下って、前方が急にぱっとひらけ、左手に田圃が見え始める辺りに「ハチひげおじさんの店」はあります。
全身をハチに包まれたハチひげおじさんの看板はまるで新興宗教の教祖のようで、『蜂アカデミーへの報告』の著者が見たら、戦慄を覚えたに違いありません。

吉野坂下の「ハチひげおじさんの店(荻原養蜂園)」
後藤明生著『蜂アカデミーへの報告』

【番外6】「栗とスズメ蜂」

後藤明生氏の晩年のエッセイ「栗とスズメ蜂」にも蜂の話は登場します。
それは信濃追分の山小屋暮しの最後の日の出来事。明生氏は天井付近を飛ぶスズメ蜂を発見しますが、妻に説得され、退治をあきらめます。
1997.10月に『群像』に掲載された「栗とスズメ蜂」は前年(1996)夏の話でしたが、『日本近代文学との戦い』のあとがきによると、明生氏が最後に信濃追分の山小屋を訪れたのは1999.4.29から5.10で、直後に日本経済新聞に掲載された「ふっと思い出す話」(1999.6.13)が事実上の絶筆となったとのことです。

『日本近代文学との戦い』(後藤明生遺稿集)

【ふっと思い出す話】

明生氏の絶筆となった「ふっと思い出す話」 (1999.6.13)
 このときは、まさか亡くなるとは思いませんでしたが、中央本線沿線の浦島太郎の晩年の地とか司馬遼太郎さんが新幹線で他人の弁当を間違って食べてしまった話が、心に沁みます。

【番外7】 特急「しなの」

「ふっと思い出す話」を受け、特急「しなの」に乗ったのは2008年5月。長野でレンタカーを借り、長野・上越・軽井沢・追分・小諸・上田などを巡りました。(写真は、帰路の特急「しなの」と車窓の風景で、4枚目が「浦島伝説ゆかりの地」2008.5.6)

特急「しなの」 (2008.5月)
特急「しなの」の車窓からみた浦島太郎の晩年の地

【番外8】 吉野坂下から信濃追分駅へ

吉野坂下の、さらに南の「しなの鉄道」の線路を潜り、県道137号(借宿小諸線)に抜け、信濃追分駅に向かいました。(県道は小諸や岩村田方面からの抜け道のようで、交通量が多く危険なのでオススメできません。)

吉野坂下、「しなの鉄道」の下を潜り信濃追分駅方面へ
信濃追分駅に向う県道
信濃追分駅

【番外9】 借宿、女街道

しかし女街道の方は、笑坂ほど近くではないようだった。老人の昔語りによれば、借宿(かりやど)のあたりから、南に折れ込むらしい。借宿は分去れからバスで三つ目だった。

(「女街道」W179)
信濃追分駅前の道を右(東)に向かうと、借宿、女街道方面ですが、今回は行くのを断念

目の前に浅間が見えた。借宿から見る浅間は、追分で見る浅間よりも、少しばかり横に長く見えた。東に寄った分だけ、西の斜面が長く見える。そして、下界では太陽が照り付けていたが、浅間の山頂は雲で隠れていた。私は歩きはじめた。しかし、五、六歩で立ち止まった。道路の向う側に、ブロック造りの四角いバス停の待合室が見えた。(中略)
しかし立ち止まったのはそのためではなかった。ブロック造りの奇妙な待合室の右に立っている石のためだった。(略)道祖神ではないかと思う。

(「女街道」W185)
写真は、往路の高速バスからみた「借宿から見る浅間山」
(コンビニの左に「バス停の待合室」と「道祖神」(W185)がありました。)

借宿の南には「女街道入口」の案内板があり、そこには「この街道はこれより本街道と分かれ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵が原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。」とあるそうです。

女街道入口。江戸幕府は〝入り鉄砲・出女〟といって(中略)諸大名の奥方は人質的意義をもっていたので、女人の出入は厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道という。

(「女街道」W194)
(地図は『軽井沢文学散歩』1995.10.11版による)

(続く)



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