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うな重の宝箱


 今年26歳になるわたしは「ハリーポッター」世代ど真ん中で育ちました。わたしたちの世代の人間は、みな一度はバタービールを飲みたいと思ったことがあるはずです。

 バタービールとは、ハリーたちホグワーツ魔法魔術学校の生徒が、休暇の時だけ遊びに行くことを許される村で飲むことができる飲み物で、ノンアルコールの甘い飲み口であると本には書いてあります。村に遊びに行くことを学校から許可されなかったハリーが、どうしても飲みたかったものです。

 魔法界で「ここに行ってみたい、あれを食べてみたい」と思ったものを挙げたらキリがないのですが、その中でもバタービールはわたしにとっては何故だか特別です。バタービールというのだから、バターが入っていてしょっぱいのだろうか?でもハリーが言うには甘いらしい。だけどビールは普通苦いのではないだろうか? …想像しても答えのないバタービールの味を、金曜ロードショーでハリーポッターが放送されるたびに想像したものです。わたしの特別な飲み物が、ハリーにとっても特別な飲み物であるということが、小学生のわたしは嬉しかった。


 それが、実際に飲めるという話を聞いたときの嬉しさったらありませんでした。USJにハリーポッターワールドができて、バタービールが売られるというのです。当時すでに大学生になっていたけれどバタービールへの情熱を失っていなかったわたしは、十年越しの夢を叶えるべくオープン初日にUSJに赴きました。

 初めて口にしたバタービールは、たしかに美味しかった。それに、今まで飲んだことがない味ではありました。上手く形容する言葉がありませんでした。一緒に行った母と弟は「案外美味しいね」なんて言いながらぐびぐび飲んでいたけれど、かたや十年越しの夢を叶えたわたしはといえば、何か釈然としないものが心の中でもやもやうずまいていました。「美味しいけど、わたしの想像と違う」。ただこれだけでした。

 生涯で、あんなにがっかりしたことは後にも先にもなかったような気がします。そびえ立つ城や、アトラクションに乗って飛んだ空は、「映画で見たまんまだ!」とわたしを興奮させてくれました。けれど、やはり味覚だけは、とても個別的な、わたしだけの記憶だったのです。



 わたしは元々、食にこだわりのない人間です。朝からなにかに没頭している日なんかは、ご飯を食べること自体を忘れてしまうこともあります。たまに友人と外食をするときも、最初は美味しいと思っても、後半は特になにも感じず流し込むだけになります。基本的に食に関心がないのです。

 そんなわたしにも、バタービールの他に特別な食べ物があります。たまに、無性にうな重が食べたくなるのです。

 日本橋のデパートの特別食堂に行きたい。松竹梅の三つのランクの、竹を食べたい。赤だしではなく肝吸い。お重の向こう側から、半身ずつきれいにお箸で切りながら、ちょっとずつ食べたい。

 あの甘ったるくしょっぱいタレより美味しいものは、わたしが今まで口にしたものの中ではなかったように思います。大人になって、特別食堂より高級な鰻屋さんに連れて行ってもらったことも、有名店に行ったこともあるけれど、特別食堂のうな重を超えるものはありませんでした。


 小学生の頃、半年に一回だけ訪れる日曜の夜はいつも母の機嫌が悪かったものです。今となれば母の怒りもわかります。普段早起きしてわたしと弟にお弁当を作り、働いてきてから夜ご飯を作ってくれるのは母だったのです。

 小学生だったわたしはそれでも、半年に一回の、日曜の特別食堂が楽しみでした。父の顔色を伺いながら梅を頼むと、遠慮するなと言って竹を頼んでくれる。父が、わたしの、一番喜ぶと思っているもの。


 母と離婚した父と会うのは半年に一回で、特に話すこともなく、毎回「学校はうまくいってるか?」とバカの一つ覚えのように聞いてくる父に、わざと不機嫌に見えるように返事をしながら食べた鰻の味は、毎日会う母の料理とは比べ物にならない宝物でした。母がどれだけの思いでわたしと弟を育ててくれたのかわかるようになった今でさえ、それは変わりません。いま目の前にあるものは、無くなったものに勝ちようがない。



 わたしはたぶん、もう三越の特別食堂に行くことはないと思います。わたしの記憶の中にだけ存在する宝物の味が、もし失われてしまったらと思うと、怖くて仕方がないのです。

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