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認知症の人が死ぬということ

昨日は1月からやっていた仕事のクランクアップの日だったのだが、わたしは現場にいなかった。

というのも、その前々日に祖母が亡くなって、クランクアップと葬儀が被ったため、仕事を休ませてもらったのだ。

「おばあちゃんの葬儀くらいで…」とか小言を言われることも覚悟してたが、みんなご愁傷様とわたしを労ってくれ誰も文句を言わないでくれた。


亡くなったのは母方の祖母で、わたしは物心ついたときから祖父母と一緒に暮らしてきた。物心ついたときすでに一緒に暮らしていなかった父より、むしろわたしにとっては親に近い存在だったような気がする。



正直に言うと、それなのに、わたしは涙の一滴も出なかった。母から連絡を受けて、三崎の現場から急ぎ電車で向かっているあいだに祖母は息を引き取り、死に目に会えなかったが、ベッドで口周りをタオルでグルグル巻きにされている祖母を見ても、わたしはなんだか、「実感がわかなかった」。



「これは誰だ?」



わたしの母はかれこれ8年ほど祖母の介護をしてきた。祖母は認知症であった。


祖母には、若い頃からずっと親しくしてきた同い年の友人がひとりいた。わたしは子供の頃から彼女のことを祖母からよく聞かされてきたので、数回しか会ったことがないのに彼女のことをよく知っていた。

これは後から母に聞いたことだが、8,9年前に、祖母はその彼女になにか酷いことを言われたそうだ。祖母はなにを言われたのか遂にわたしたちに教えなかったが、その頃を境に一気に祖母の様子がおかしくなった。

物凄くショックな出来事が起こったことが認知症になるきっかけになることは多いという。祖母にとって彼女に言われたことは認知症になるほどショックなことだったのだろう。



認知症という病気を、単なる「ボケ」と混同している人が多いように感じるが、記憶がなくなっていくことは認知症の症状のひとつに過ぎない。




8年ほど前、わたしが大学生だった頃、母に「ばーばの黒真珠取ってないよね?」と聞かれた。全く身に覚えがなかったし、祖母が黒真珠を持ってることも知らなかった。祖母が母に「わたしの黒真珠がないんだけど、きっと絵美が取ったんだと思う」と言ったのだ。

そのあともそういったことが続いた。「太郎(わたしの弟)がわたしたちの通帳を使ってお金を勝手に下ろしてる」と言って銀行から全財産を下ろしてきて、一緒に住んでいる二世帯住宅の二階部分のドアに勝手にカギを設置したりしはじめた。

食料がなくなることを異常に恐れて、通販で冷凍カレーを大量に買い込んで家がカレーだらけになったこともあった。


一緒に住んでいた祖父はそのときどうしていたかというと、祖父は本当に祖母のことが大好きで、ずっと二人でいたからか、同時に認知症になってしまっていた。
祖父は前立腺がんでその数年後に早々に亡くなってしまった。


祖母が明け方にわたしたちの住んでいる三階にきて母を起こし、「起きたら隣に知らないおじいさんが寝てるから追い出して」と言ったときもショックだったが、あんなに祖母のことを大好きだった祖父が「起きたら隣に知らないおばあさんが寝てる」と母に言ってきたときは本当に悲しかった。



わたしが経験した限りでは、認知症には3つのステップがある。

ステップ1、軽い物忘れのようなものの頻度が増える。

ステップ2、身内に対して攻撃的になり、被害妄想が増える。

ステップ3、完全に身内のことも認識できないようになるが、攻撃的な面は薄れ、ぼーっとして、たまにニコニコしてくれるようになる。



母には妹がひとりいるが、祖父の死後、母の妹は、母が祖父の財産を隠していると言い出した。ずっと祖父母の介護をひとりでしてきた母を真近に見ていたわたしとしては、彼女の発言は本当に腹わたが煮え繰り返るほど許せないものだったが、彼女がそう思ったのにも理由があった。

祖母は「ステップ2」のころ、頻繁に母の妹に電話していた。祖母は、母が自分たちのことを叩いたり蹴ったりする、だとか、絵美や太郎が財産を取ってしまうだとか、母が銀行から勝手にお金を下ろしてしまうと電話で妹に伝えていた。さらに、祖父母はわたしたちに勝手にお金を遣われることを恐れて全財産を下ろし、株も売り払い、何を買ったのか今となってはわからないが色んなものを買いまくっていたので、祖父が亡くなったとき、びっくりするくらい財産が無くなっていたのも事実だった。


認知症の悲しいところは、この「ステップ2」にある。ただの「ボケ老人」ではないというところだ。しっかりした口調で人を傷つける。信じる妹もどうかと思うが、祖母がしっかりした口調でそれらのことを妹に伝えていたのは事実だ。





祖母が亡くなった翌日、わたしは現場に出ていたが、移動中のバスの中で、不思議な気持ちにおそわれていた。
祖母や祖父が認知症になった頃のこと、認知症になる前のことが、全然思い出せなかったのだ。当時あんなに鮮烈だったことが、なぜか頭からすぽっと抜け落ちてしまっていたようだった。

わたしはわたしで、潜在的に「思い出したくない」という気持ちがあるのか、あの当時、つまり「ステップ2」のころの記憶を勝手に消してしまっていたようだった。上に書いたこと以外にもたくさんあった辛いことが、今でもあまり思い出せない。


「ステップ2」以降のことだけではない。以前のこと、つまり、旅行に行ったこと、毎日一緒にご飯を食べたこと、近所の祭りに行ったこと、友達が家に遊びに来たときお茶を出してくれたこと、服を買ってくれたこと、そういうことがあったことは分かっているのに、そのときの祖父母の顔、なにを言ったのか、どこにいたのか、具体的なことが何一つ思い出せないのだ。




わたしは「ステップ2」のころの記憶がほとんどないことが、本当はとてもありがたい。母を怒鳴ったり手を上げたり、泥棒扱いしていた祖母をわたしは許せなかった。病気だから仕方ないというのはわかっているけど、いざ目の当たりにすると、そう簡単に割り切れるものではない。こればかりは、実際に経験した人間にしか理解できないと思う。認知症という病気は本当に恐ろしい。認知症の「記憶がなくなる」という面にだけフォーカスして、家族の思い出だなんだ、と感動的なドラマとして描く作品を見ると反吐が出る。

わたしと母はなかば共依存のような関係だが、母と祖母もそれと非常に似た関係だった。祖母は本当に母のためだけに生きているような人だった。母が父と離婚した理由の一端は祖母だった。母は父より祖母を選んだ結果離婚した。その母に対してその祖母が攻撃的になる病気が認知症だ。




大事な人が死ぬとなぜ悲しいのか。その人ともう話せないから、もう会えないからだ。


わたしが祖母の死に直面しても悲しめなかったのは、わたしを目に入れても痛くないくらいに可愛がってくれた祖母が、とっくの昔に居なくなってしまっていたからだった。とっくの昔に話せなかったし、会えなくなっていたからだ。しかしそれはとても段階的で、気づかない間に進行していた「死」であったため、わたしは悲しむタイミングさえ与えてもらえなかった。



わたしがこの数日間で唯一泣いたのは、祖母の棺にみんなで花を入れたときだった。蘭の花を入れようとしたら、母が隣で「ばーばが大好きだった花だから顔の近くに入れてあげて」と言ったとき、ふと、祖母がよく紫の蘭の花を刺繍していたことを思い出した。浜町の家の二階の和室で刺繍していた祖母のことを思い出して、わたしに刺繍のワンピースを作ってくれたこと、刺繍のバッグを作ってくれたことを思い出して、あの人は、あの、気が強くて料理の味が濃くて、背が高くて猫背で、刺繍が大好きな祖母はもう死んでしまったんだなと思った。





「ステップ3」に移行してからのこと、祖母が最晩年を過ごした施設・病院のこと、母の選択のこと、まだ書きたいことがあるので、いずれ書けたらいいなと思う。



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