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こちら側とあちら側

 子供の頃、見えない友達がいた。いわゆる”イマジナリーフレンド”というやつ。子供時代に見えない友達と遊んだという人は、別に少なくないと思う。妹だって透明人間と名付けた友達と遊んでいたし。見えない友達を持つということは、最近の研究では健康な発達過程の一部であることがわかってきたそうで、北米では3歳から7歳の間の子供の約半数にその経験があるという。主に子供が寂しさを紛らわすために見えない友達を作る、というのが定説となっているらしい。

 私の友達は、名前をデックといった。白いターバンを頭に巻き、上半身は裸で白いズボンを履いている同じ年くらいの少年だった。今思えば、なぜインド風の出で立ちだったのか分からない。色は浅黒くて黒い瞳をキラキラさせていた。デックが住んでいた世界はピンクがかった、ふわふわした綿雲でできていて、マリアさまのような素敵なお母さんがいた。白い馬も飼っていた。ぼんやりとしか覚えていないけれど、デックの家で遊ぶ時は白い仔馬に乗せてもらったり、デックのお母さんの美味しいおやつを食べたりしていたように思う。また、いつも彼の世界で遊んでいたわけではなくて、時にはデックが私の家の庭にやってきて一緒にままごとをすることもあった。楽しい子供の頃の思い出だ。

 ところが、小学校2年生くらいの頃、そんな仲良しのデックと衝撃的なお別れをすることになった。イマジナリーフレンドとの別れを覚えている人はさすがに少ないんじゃないかと思うけれど、私にとってはショックが強かったのでよく覚えている。もともと子供が成長するにつれ、8、9歳くらいになると見えない友達はいなくなるという定説を考えれば、必然のことだったのかもしれない。

 最初に説明しておかなければならないのは、私は小さい子供のくせに自分が住んでいる世界が嫌いだったということだ。見た目が人と違うことでいじめられたこと、自然を破壊する人々がいること、空想の世界のように不思議な生き物たちと遊べないこと。この世のさまざまな摂理が、幼い時分の私を苦しめていた。子供ながらも一丁前に、なんでこんな世界で生きなきゃいけないんだろう、と世界を憂いていたのだ。そんなある日、むくれている私を見てデックが言った。「そんなに嫌なら、僕の世界に来ればいいよ」デックは私を彼の世界の住人にできると言う。「今日の夜、迎えに行くから、その時までに決めておいてね」

 あの日、夜が来るのを待つのがどれだけ恐ろしかったことか、今でも忘れられない。私はデックの世界に行ってしまいたかった。ふわふわした平穏な世界で安心して暮らしたいと願った。でも、それは自分の家族との永遠の別れを意味することを本能的に察したのだ。まだ子供である自分が、そんな大きな決断をしなければならないことも恐ろしかった。どんなに自分が住む世界が嫌でも、大好きな両親と離れる方がつらかった。私は迷いながらも、デックの世界へ行かないことに決めた。

 その夜の7時頃、ダイニングルームで夕食の準備をするために家族が集まった。私は自分がくだした決断の大きさに怯えながら、夕食の準備を手伝った。私にはその時、私を迎えにきたデックの影がはっきりと見えていた。デックはダイニングルームの窓のひさしから頭だけ出して、部屋の中を覗いていたのだ。窓に映る黒い丸い影に、私はおののいた。そしてできるだけそちらを見ないように、一人にならないようにその夜を過ごした。デックは話しかけてくることはせず、ただただ待っていた。私も行かない理由を説明しようとはせず、話しかけないでいた。夜はそうして過ぎ去った。デックはそれっきり二度と現れなくなった。

 あの鮮烈な夜の思い出は消えることなく、何年もの間、何度も私の中に問いとなって表れた。私の決断は果たして正しかったのだろうか。なぜついて行かなかったのだろうか。デックという自分にとっての絶対的な味方を失ったことが寂しくて、手紙を書いたこともあった。もちろん返事はなかった。私は、失った友達との思い出を心に留めたまま、大人になった。この話には実は後日談があるのだけど、それはまたいつか別の機会に。

 今になって思うのは、もし自分がデックの世界に行っていたら、現実世界の私はどうなったんだろうか、ということだ。私は死んでしまったのだろうか。それとも、自分の世界に閉じこもったままの植物のような人間になっていたのだろうか。その答えは分からないし、分からないがゆえにこの話を恐ろしいと感じる人もいる。幼い子供はある一定の年齢まで、あちらの世界とこちらの世界の境界線が薄いと聞く。幼いうちは、その2つの世界を分けて認識できないんだとか。私にとっては、あれがその2つの世界を切り分ける荒療治みたいなものだったのかもしれない。こちら側の世界を生き抜くために必要だったのかもしれない。デックがその切り分け役を買って出てくれたのかもしれない。

 曇り空の土曜日の夕方に一人でいると、いろんな思い出や憶測が頭を駆け巡る。今日はこのあたりでふーっと息を吐いて、思い出のページを一つ閉じることにしよう。

 

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