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431.鏡師 石谷傳さんのワークショップ ~水鏡への入口~(2023.7.30)

〈水で鏡を磨く〉
 
という言葉を目にしたときの、旋律のような感覚。
 
(〈水で磨く〉とは、どういうことなのか)
 
やすりが水をまとうように、水とともに踊るように、水をたっぷりホールドさせるイメージを持つと、研磨している感じが消え、摩擦のない、なめらかですべるような心地に包まれる。
 
(水で鏡を奏でるような)
 
〈水で磨く〉とは、水を介することで、磨き手の氣が、鏡へと移っていくのだと感じた。
 
ヒツキアメツチのサロンで、参加されたみなさんの美しいエネルギーの中で、守られ、磨けたことへの感謝があふれる。
 
(ひとりでは、できない)
 
(本文より)

 
******
 
7月30日の午後、大橋和(なごみ)さんが主宰するヒツキアメツチのサロンで、鏡師 石谷傳(いしたに ひろむ)さんの「水鏡への入口〜海獣葡萄鏡(キトラ古墳四神の館鋳造)を磨くワークショップ」に参加させていただいた。
 
和さんがこのワークショップに参加されたときの投稿を読んだのは、6月半ばのこと。
 
〈水で鏡を磨く〉
 
という言葉を目にしたときの、旋律のような感覚。
添えられた写真の、黒いお椀に張った水の中の真円の鏡は、月を映したように幻想的で、白銀の光を放ち、静かに呼吸をしているよう。
その幽玄さに惹き込まれ、いつまでも目を離せずにいた。
 
思いもかけず、そのワークショップに参加させていただけることになってからは、自分を整えて、場に臨むことを意図しているのに、ふいに感情の浄化が始まったりして、どうしていいかわからないまま、手探りなことをしていて、(こんな自分ではダメかもしれない……)と、鬱々としていた。
 
そんな中、2日前の7月28日に、ヒツキアメツチファームの活動後のカフェで「志明院:鴨川の源流」の話題になり、2016年にお詣りしたときに体験した「ひとしずくの音」を思い出す。
 
つづいて、その夜の「Academia」というクラスで、「聖なる水」というワードを受け取る。
 
翌朝、志明院を訪れたときのことをつづった当時のブログを読み返し、「水の産声」という言葉を見つけた瞬間、すべてが蘇る。
 
(ひとしずくとしての記憶。ひとしずくを受容する源としての記憶)
(ひとしずくが、源に落ち、流れに変容する記憶)
(誕生の瞬間の記憶)
(祝福しかない)
(歓喜しかない)

 
ひとしずく。
身体の内部に落ち、熱く、潤いはじめる感覚に、驚き、とまどい、受容する。
 
「水の産声」という言葉は、私を瞬時に、その境地に運ぶ。
 
そのバイブレーションに包まれる。
ワークショップに参加できると思った。
 
それでも、当日の朝、準備をしていると、やはり緊張して、しりごみする気持ちが生れる。
和さんは、そういうことを見通されているのか、午前中に、
 
〈呼吸を感じ、身体を感じ、いのちを感じて過ごす時間 ~午後の時間に向かうための深く豊かな準備のひと時~〉
 
というお話会を、企画してくださっていた。(このときのことは、あらためて書きます)
仲間とのランチタイムをはさんで、いよいよ、水鏡のワークショップへ。
 
◆「天」
 
ワークショップのはじめに、鏡師 石谷傳さんから、鏡の本質や、鏡が映すもののことや、鏡師として導かれていく不思議な経緯や、修行と研鑽の数々について、魂がこもる言葉で、お話していただく。
 
前人のいない道をで、傳さんが積まれた努力やご苦労、葛藤は、はかりしれないはずなのに、そのようなことは全く感じさせない、誠実な笑顔。
 
そして、披露してくださった「天」と名付けられた鏡。
「天」「地」「人」と、磨かれたうちの一つで、額縁は屋久杉とのこと。
 
何人かずつで鏡を囲み、手を映したり、指を動かしてみたり、おそるおそるのぞきこんだりさせていただいたのだけど、鏡というより、その中に別の次元が広がっているような世界。
 
信じられないほどのクリアさと、どこまでも深い奥行に吸い込まれ、自分がどちら側にいるのかわからなくなる。
 
たとえば、じかに見ている手指よりも、鏡の中の手指のほうが、皮膚のシワや細胞から脈動が伝わってくるような、すさまじいほどの存在感がある。
 
(質感と立体感がすごい)
 
同じものとは思えなくて、何度も双方を見比べる。
 
和さんのお言葉添えで、ひとりずつ、静かに鏡の前にたたずむ時間をいただいた。
 

(何が映るのか)
(何を観るのか)

 
自分の顔が映っているのに、顔だと認識しないような不思議な感覚があり、目が目でなく、鼻が鼻でなく、私が知っている私の顔ではなくなっていくような、別の人がいるような気配の中から、ふいに、力強いエネルギーがやってくる。
 
(真実)
 
ゆるぎないエネルギーが、まっすぐに、架け橋のように、つながり、宿る。
私の知らない私の瞳の、光とともに。
 
(忘れない)
 
◆水で磨く
 
鏡。エプロン。手袋。腕カバー。ぞうきん。タオル。耐水性のやすり。水を張ったボウル。仕上げに鏡を締めるための冷たい水。
 
すべて 傳さんが準備をしてくださり、配られたものを並べ、身に着けていく。

鏡は、磨く人にとって、どのような存在となるものなのか)
(どのような心持ちで磨くのか)

それを意識するのとしないのでは、鏡がまったく変わってくる。
 
(傳さんならではの教え)
 
長い工程の中で、忘れそうになるたびに思い出し、気持ちを立て直す。
 
鏡は、水をくぐらせたやすりで、一定の方向性を保って、磨く。
最初のやすりは粗い。
溶接の時にできた継ぎ目を消すことに意識が向くと、つい、削るような気持ちになる。
 
水とやすりの調和を忘れて、やすりの「傷」を作ってしまう。
傷で傷を消そうとするように、がむしゃらになってしまう。

気をつけていても、いつのまにか力が入っていることに気付いて、はっとする。
 
固まっていた肩や腰をまわしていたら、後ろにいた和さんが、強張った背中に手をあてて、言葉をかけてくださった。
 
(なんというヒーリング)
 
やすりが変わるたびに、目が細かくなっていく。

(〈水で磨く〉とは、どういうことなのか)
 
やすりが水をまとうように、水とともに踊るように、水をたっぷりホールドさせるイメージを持つと、研磨している感じが消え、摩擦のない、なめらかですべるような心地に包まれる。
 
(水で鏡を奏でるような)

 
始める前の、何も映らない鈍い鏡面が、最後のやすりをかけ終えるころには、光をはなち、ぼんやりと映るようになっている。
仕上げのクリーム状の研磨剤で磨くと、曇りが晴れていく。
 
その鏡を、水の中に還す。
ひろむさんは、「水で締める」とおっしゃっていた。
和さんが用意してくださった器の中に鏡を置き、上から水を満たしていく。
 
私の前に置かれていた器は、鹿児島の焼き物で、和さんから、「桜島の火山灰が入っている」と教えていただいたものだった。
濃い茶色と赤の二色の器に満たされた水の底に沈む鏡は、月のようで、そのたたずまいに見とれる。
いつまでも眺めていたい美しさ。
 
傳さんのお声かけで、鏡を水からすくいだすと、ずっしりと重量を増している。
用意してくださったタオルで、水分をふきとる。


できあがった鏡は、曇りもあり、ゆがみやたわみもあるけれど、顔を近づけていくと、だんだん焦点やバランスがあってきて、鏡に映る瞳から感じられる氣が、「天」をのぞきこんだときに感じたものだとわかる。
 
(私の鏡)
 
鏡面の美しさや、映るか映らないかではなく、「私の鏡」かどうか。
〈水で磨く〉とは、水を介することで、磨き手の氣が、鏡へと移っていく
のだと感じた。
 
ヒツキアメツチのサロンで、参加されたみなさんの美しいエネルギーの中で、守られ、磨けたことへの感謝があふれる。
 
(ひとりでは、できない)
 
「まっすぐにつながるスイッチにしてください」と、傳さんから、お言葉をいただく。
 
できあがった鏡を入れて持ち歩くことができる、麻で作った小さな袋も。
 
磨いた鏡を手に、記念の集合写真を撮影して、ワークショップは終了。
 
傳さんの奥様が焼いてくださったカップケーキも、シンジさんがお土産に持ってきてくださったゼリーも、お月様のようだ。



二日後には満月を迎える。
 
海や、湖や、川や、池や、地上のあらゆる水に、天からのエネルギーが宿る。
磨いた鏡に、月の光を映す。

鏡師 石谷 傳さん 
オーガナイズしてくださった大橋 和さん
ご一緒してくださったみなさん
 
かけがえのない体験と、ずっといっしょにいられる宝物を、ありがとうございます。


浜田えみな

水の産声


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