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410.ヒカゲノカズラをまとう

6月3日に、お友達の車で、京都の鷹ガ峯にある山のレストランを訪れた。
大徳寺で、もう一人のお友達と合流して、「山の家はせがわ」を目指す。
前日の大雨による悪路を心配していたけれど、雨に洗い流された緑は、日差しを受けてぴかぴかに輝き、山の空気は澄んでいる。窓を全開にして、風の中を進む。しだいに高度があがり、鷹峯のヘリポートの近くや、京見峠と言われる場所を抜けていく。

教えてもらわなければ、行き過ぎてしまうほどの、木に覆われた控えめな表札。

道路からさらに奥まったところに、山の家はせがわは、ある、
山のレストランだと聞いて、想像していたのとは、ぜんぜん違う。
車をおりて、外に出ると、そこは別世界。

青い空。白い雲。一体化しているように、山の中に抱かれる木の家。手作りのログハウスだと教えていただく。

(ここはどこ?)

ひかりと、みどりと、植物たちの声に包まれて、動けずにいる。
「ヒカゲノカズラ」という声が聴こえて、傍に走っていく。
天岩戸の前で、アメノウズメが身体に巻き付けて踊ったという、ヒカゲノカズラ。
自生しているのを見るのは初めてだ。

(こんなにびっしり)  
 
名前から、巻き付くように伸びている蔓性の植物だと思っていたが、斜面にびっしり、いちめんに生えている。

「胞子嚢穂(ほうしのうすい)」と呼ばれる小さな穂(調べた!)が、光に向かって、にょきにょき出ている。

(神話でヒカゲノカズラが登場するのは、天岩戸が開くシーン)

***

少し、前回の出逢いのことを振り返る。

1月28日に、お友達のサロンで、3人で会ったとき、フラワーエッセンスを3本ずつ選び、受け取ったイメージを全員でシェアして、ボトルを作っていただいた。

私が選んだものは

「すすき」……忍耐力
「青い手」……遂行 、知る、癒し
「トランスフォーメーション」……変容

お友達が選んだのは、

「吊花」……全ては繋がっていることを知る
「ヒーリングハートオブザソウル」……魂のハートの癒し
「岩戸」

そのころの私は、2022年11月頃から、「イナンナの冥界下り」というシュメール神話を能にアレンジした舞台のPVを見たことがきっかけで、『ヒロインの旅』という書籍にはまり、女性の通過儀礼としての「冥界下り(インナージャーニー)」について、内省する機会を得たのと同時期に、「女性の怒り」について話す、ホオポノポノのヒューレン博士の10分ほどの動画に出逢い、博士の言葉から、アダムとイブに始まる記憶、過去世や、自分につながる先祖や、集合意識にまじりあう、さまざまな感情が、今の自分に影響していることを感じ、記憶のクリーニングやヒーリングのことに意識を向けている、まさにその時だった。

なので、お友達が選んだ、目の前に並ぶ3本のボトルは、その答えだと感じたし、あわせて自分のボトルのメッセージを見たときに、岩戸の中で何が起こっているのかを、体感した。

(前世、今世、来世、すべての人生を通して魂のハートを癒すことができる……)
(「岩戸」は、その癒しが起きる場所)
(魂が必要としているものが、チャージされ、トランスフォームが起こる場所)
「岩戸」とは「冥界下り=インナージャーニー=潜在意識の領域」

神話で、天照(おおひるめ)が岩戸にこもったとき、中で何が起きていたのかも想像できた。

(祈り)(祓い)(癒し)

永い忍耐の歴史にピリオドを打ち、時空を超えてすべてが浄化され、癒されたとき、闇と光は繋がり、変容がおこる。

私たちは、それぞれ、「岩戸のプロセス」にいて、エッセンスがみせてくれるイメージを受け取った。

それが、1月28日のこと。

4カ月を経た6月3日、目の前の斜面に、太陽を浴びて、びっしりと繁茂しているヒカゲノカズラに、

(岩戸から出るとき!)

というメッセージを受け取る。

***

ヒカゲノカズラの斜面の横には、小さな湧水の場所があり、その透き通った水の美しさに惹きこまれて近づくと、白いふわふわのメレンゲのような塊が、木の枝からぶらさがっている。

(もしかして、これはモリアオガエルの卵!)


湧水のまわりだけでなく、少し高い場所や、見上げるほど高い木の梢にも、卵の泡をみつけて、その高さまでモリアオガエルが登っていくことに驚く。

天敵から守るために、葉に隠れ、目につかない場所を目指して、メスは登るのだろうし、オスもまた、登る。
美しい湧水をたたえた場所のまわりに、愛と祈りに包まれた、いくつもの白いメレンゲが、その中に命を宿している。
一つの塊に、300くらいの卵があるそうだ。

目に入るだけでも、5~6個の塊があるので、すべてが孵化すれば、とんでもないことになるが、どこにいるのか、オタマジャクシも、モリアオガエルの姿は見えない。
どこにいるのだろう? と大きな声で話していたら、突然、鳴き声がするのでびっくり。

「ここにいるよ」

と教えてくれるので、声のする方に目をこらすのだが、姿は見つけられず。
でも、しばらく、鳴き声は続いていた。

実は、1月28日に3人で会ってから、次に会う予定にしていたのは、4月25日。
それが都合で延期になり、6月3日となった。

そのおかげで、こんなにも青い空や、白い雲、新緑の美しさに包まれ、ヒカゲノカズラや、モリアオガエルの卵の祝福を受けている。

(岩戸から出る)
(生まれ出る)

***

いよいよ、「山の家はせがわ」へ。
ヒカゲノカズラや、モリアオガエルのいる場所から、見上げる場所にあるレストランへは、木々のトンネルの中、なんとも魅力的な小径を上がっていく。

ウッドデッキには、ハンモックに木のブランコ。

奥には、新緑を望むテラス席がひろがっていて、その特等席に案内していただく。

せっかくなので、ぜんぶ食べたいと思い、エビフライとホタテフライとハンバーグのランチセットをお願いする。プレートには、目玉焼きとサラダが添えられ、スープとライスがついてくる。

(こんなにすてきなレストランだったなんて)

床も、テーブルも、椅子も、すべてが、木でできている。
からだにふれるすべてが、大きく、がんじょうな、あたたかい、木の波動につつまれる。
格子の下半分には、ガラスがはまっていなくて、風が吹き抜けていく。その心地よさ。
お水は、山の水だという。
「たくさん飲んでね」と、言っていただく。

知らず知らず、呼吸が深くなっている。
からだがゆるんでいる。

食事が運ばれてくるのを待つ間、気になっていた「ハンモック」に近づく。
乗ってもよい、ということなので、初体験!

最初、乗り込むときは不安定だけど、すっぽり収まると、不思議な安定感。落ちないように固まっていた身体がほどけると、あとは、ゆらゆらと揺れを楽しめる。
風と緑につつまれた山の空間なので、ほんとうに、心地よい。
3人で並んで、しばしゆらぎを楽しんでいると、料理が運ばれてくる。

エビフライの大きさに歓声をあげる。
一口かんで、また、歓声。
噛んでも、噛んでも、なくらないエビ! 口の中がエビだらけ! その至福を堪能。
私は、エビが大好きなので、次回は、エビフライ2尾のセットにしようと決める。
いや、1尾追加して、3尾でもいけるかも!
想像しただけで、幸せになる。

ハンバーグは、ふわふわで、デミグラスソースもおいしく、ホタテもジャンボ!
スープもおいしくて、サラダもシャキシャキ。ごはんがススム。

器も素敵で、食後の紅茶のカップ&ソーサーも、ぬくもりがあり、目に入るのは、新緑と青空。
身体にふれるのは、木と、山の風。
共鳴しあえる仲間。

ランチのあと、大きな木のテーブルに、ワークショップを受けたばかりの、エンジェルのオラクルカードを並べて、それぞれの扉に入っていく。

呼吸するたびに、幸せが深まっていくひととき。

*********

(岩戸から出る)

そのサポートとして、オーナーに、許可をいただいて、お山のヒカゲノカズラを少し、分けていただけることになった。

お祈りをして、ほんの少し、いただく……つもりだったのだけど、ヒカゲノカズラは、思いのほか、長く、茎が頑丈で、指でちぎるのが難しい上、びっしりと地面に張り付いていて、どこから始まって、どこで終わっているのかわからない。

はがすようにして、長い茎をたぐっていくと、ところどころで、土の中に根を張っていることがわかって、びっくり。
上に伸びるのではなく、地面を横に這うように伸びる植物だった。

大騒ぎしながら、それぞれが、ここと決めた場所から、1本いただくことに成功。
思いのほか長くなったヒカゲノカズラは、確かに、身体に巻き付けることができるほど。
生れたてのヒカゲノカズラは、ふわふわで、幾本か合わせて編めば、身体を覆うことができそうだ。
さすがに、裸になって巻き付けることはしないけれど、そんな気持ちで、肩にかけたり、頭からかぶったり、冠のようにして、頭にのせたり。

3人で記念に写真を撮ろうということになり、ヒカゲノカズラを頭からかぶったまま、スマホを車のフロントガラスに立てかけて、角度を調整したり、画面に入るようにポジションを確認したり、セルフタイマーをセットするなど、右往左往の大騒ぎ。

その姿が、まるで海から、頭にワカメを張り付けて、あがってきた姿のようで、可笑しくなる。

見るたびに、あの日のひかりと笑い声が聴こえる、ワカメ3姉妹のショットは、アメノウズメのエネルギーを運んでくれる。

3人で撮影したあとは、ひとりひとり、撮影大会。
妖精のようなお友達。青い龍のようなお友達。
それぞれが、それぞれのプロセスを経て、

(岩戸から出る)

********

「山の家はせがわ」は、レストラン棟の奥にも棟があり、その奥は山の中へと続いている。
小川が流れ、どこまでも入っていきたい道が延びている。 

いつまででもいたい「山の家はせがわ」を後に、お友達のサロンへ向かう。
次のステージのフラワーエッセンスのボトルを作ってもらうためだ。

前回は、並んでいるボトルから、気になるものを選んだが、このときは、たくさんのお花のカードから、気になるものを3枚選ぶやりかただった。

私は、「直感で」というものが苦手で、色や形を見ていると、どんどん目移りして、思考が働きはじめ、もう選べなくなる。
時間が経てば経つほどダメなので、目をとじて、ぱっとひらいた瞬間に、一番に見えたものを選ぶ方法を、3回くりかえして、カードを決める。

並べてみると、紫色の花が2枚。

意図したことは、「想いを具現化するためのサポート」
魂の望みのような大きなことであれ、それに繋がる過程におけるステップのような小さなことであれ、心に決めたことは、どんなことでも最後までやりたい、行動したい、形にしたい、置き去りにしたくない、なかったことにしたくない、それを意図した。

一枚目のカードをめくったとき、飛び込んできた文字は、

「勇気」

その言葉だけで、十分わかった。
そうだ、「勇気」

次のカードは、「見えるようにあらわす」
最後のカードは、「客観性」


そのものズバリ。
想いを具現化するために、必要なもの。そして、私が出せずにいるもの。手にして進むもの。

1本ずつ、順番にエッセンスを頭頂にたらしてもらって、メッセージを受け取る。

〈タイム:勇気〉

見えているのは、白っぽいベージュの何もない土地。黒く湿って肥沃そうなわけでもなく、草木も見えず、人も建物も見えない。でも、荒れた感じはせず、静か。

突然、その土に〈種が植えられた〉感覚が伝わる。

見た目は変わらず、種を植える人の姿も映らなかったが、〈種は植えられた〉

(勇気の種)

***

〈現の証拠:見えるようにあらわす〉

薬草として、その名を知っていたけれど、このような感じを充てるとは知らなかった。
想いを形にしたいという意図に、ぴったりすぎるメッセージをもらって、確かにそのとおりだと納得する。

見えたイメージは、上から滔々と流れてくる水の流れの前にいる私。
その流れに両腕を差しいれ、くぐらせ、たぐりよせ、すくいとり、交差して…… その作業をくりかえす。
水だから、手ごたえは、あるようでなく、できあがりも目に見えない。
だけど、たしかに、すくいとる感覚や、交差する感覚が伝わってくる。
水の流れも、目の高さにあるときだけ薄く見えていて、その先はフェイドアウトして、どうなっているのかわからない。
ただ、繰り返されている、その行為に名前を付けるとしたら

(水を編む)

〈見えるように表す〉というキーワードなのに、なぜ、見えないものを編み続けているのだろう? と思ったときに、〈見えるものと見えないものは同時に存在していること〉を体感する。

何かを形にしようと思ったら、形にするためと同じくらい、形のないものに心を尽くし続ける。
そのことを教えてくれた気がする、

(後に、別の場面で、この水を編むというイメージを感じることになるのだけど、それはまた別記で)

***

〈カタクリ:客観性〉

このエッセンスで見えたのは、高い木の上から、空と森を見渡す光景。人はいない。
ただ、空と梢を見晴らしている。

視野を広く。

********

お友達が選んだフラワーエッセンスは

〈寒椿:エネルギーの快復〉
〈辛夷:頑なさを溶かす〉
〈木立朝鮮朝顔:囚われた魂を自由にする〉

いまの自分に必要な、もう一つの側面からのサポートが舞い降りるのを感じる。
全員が、つながっていることも。

なぜか、寒椿のエッセンスで、笑顔の波動と、(一人じゃない、大丈夫、助けてもらえる)というメッセージに包まれる。

最後に、日本の神様のエネルギーをいただいて作られたという、エッセンスの中から一本選んでくれた。

〈菊理媛〉

日本書紀にしか登場しない菊理媛は、伊邪那岐と伊邪那美の壮絶な仲たがいを「白の言葉」で治める。

菊理媛がむすんだのは、伊邪那岐と伊邪那美に象徴される、男性性と女性性であり、潜在意識と顕在意識であり、見える世界と見えない世界のようだと、私は感じている。

その名前のエッセンスが選ばれたことに、静かな感謝が湧いてくる。

***

この日、「山の家はせがわ」に向かう車の中で、1月28日に、「トランスフォーメーション」のエッセンスでみえたイメージが、後にまでつながる旅の始まりだったことを知る。
そして、「現の証拠」のエッセンスで体感したイメージが、次のステージの扉を開けることになった。

寝ているときに見る夢や、ワークや瞑想で見えるイメージを、そのままにせず、現実の世界におろして、ひらいて、具現化すると、どのようなことが起こるのか。
それが、どれほどパワフルなことか。

(イメージで見えたものが、現実になるという体験)

お友達は、それを既に体験し、続く私の体験が、始まろうとしている。
この連鎖は、続く予感。


浜田えみな


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