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サードプレイスなカフェって素敵だけどさ

先月26日に、2018年はじめてのカフェゼミが開催されました。

カフェゼミは、法政大学の長岡研究室が月1で開催しているオープンゼミ。キャンパス内でのゼミはいつもオープンなのですが、カフェゼミに限っては毎回キャンパスを飛びだし、街中で社会人の方でも来やすい時間帯で(木曜18:30から)やっています。

今回は、カフェ文化研究家の飯田美樹さんにお越しいただいて、カフェ空間の特徴と魅力について、おいしいクッキーを食べながらお話を聞きました。

カフェで過ごす時間は、すきまの時間

パリのカフェを研究されている飯田さんは、何度も現地のカフェに足を運んでいるそう。かつてはコーヒー1杯を1ユーロで買えたこと(いまも?)、テラス席のコーヒーの値段は2.5ユーロで、室内のカウンター席よりも値段が少し高いこと、若者が集まって芸術や社会についての議論をしたり、思いがけない新しい出会いがそこにあるからこそ、カフェに人が集まっていたと伺いました。

面白かったのは、これといった目的をがなくても存在が許される場所だということでした。コーヒーを1杯注文すれば、どんな人でも居てOK。なにをやってもいいけれど、なにもしなくてもいい場所です。意図や目的が決まっていないからこそ、居心地が良いのかなと思いました。

逆に、合目的的な生活を送っていると、「意味がないこと」や「お金にならないなこと」を遠ざけて、それ以外の「目的もなくただ過ごす時間」が無駄に思えてくる。「目的もなくただ過ごす時間」は無駄でもなんでもなく、今までの人生を振り返ったり「いまやってることって本当にやりたいことだっけ?」などと自問自答する、むしろ必要な時間だと思うのです。本当に、予定調和な毎日を過ごすってつまらないと思うんですよね。自分で作った人生計画に忠実に生きるなんて、退屈で退屈で耐えられません。予想外のことがたくさん起こるから面白いのに。計画をまったく立てないのもダメだけど、計画に縛られるのはもっと嫌いです。

カフェは、すべきことがある人もない人も居ていい。カフェでぼーっと過ごす時間は、合目的的な日々のすきまに、「この人生でわたしは本当に良いんだっけ?」と問える時間なのかもしれません。

役割を演じている自分から、本来の自分に戻る

飯田さんいわく、1が家庭での自分、2が職場や学校での自分、3が普段は出てこない本来の自分だそうです。カフェやサードプレイスと言われる場所では、この第3の自分を出すことができるんだそうです。

もちろん1も2も自分だけれど、1や2では、少なからず何らかの役割を要求されると思います。たとえば、家庭では「お母さん」「お父さん」「こども」「妻」「夫」のような、家庭内の役割を。職場や学校なら、「上司」「部下」「マネージャー」など、会社や社会のなかでのポジションを。

そういう役割は他人に自分を紹介するときの便利な肩書きにしかならないと思います。便利だけど、普段から意識しすぎると型にはまって、どんどん面白くなくなっていく。部下だから◯◯すべきとか、こどもだから、学生だから◯◯すべきとか。そんなの、人間同士のコミュニケーションにおいて重要ではないし、むしろ邪魔だと思います。社会の肩書きではなくて、自分の名前で胸を張って人と関わっていきたい。だから、いつも強制されないときは3の自分であれるように心がけていますが、なかなか難しいのです。

いつも3の自分でありたいけど、1や2で役割を演じなければならないときはもちろんあって。それだけだと、自分が自分でなくなるようで苦しいので、1や2ばかりで疲弊したときに行く場所が、サードプレイスとしてのカフェなのかなあと思います。

サードプレイスとしてのカフェって

サードプレイスとしてのカフェって素敵だけれど、自分のサードプレイスが必ずしもカフェというわけではありません。サードプレイスっぽい要素を含んだ場所を、わたしはいくつか持っていて、それらがバランスよく機能しているからいま心身ともに健康でいられていると思います。

でもやっぱり、サードプレイスなカフェを探せたら、素敵だと思うのです🍰


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