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主体性と暴力

先日、這ってでも観に行くと決めていた三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実を観に行ってきた。
帰宅して思いつくままに乱雑に感想をfacebookに書いたのだが、その後整理して何か書こうと思うと、取り扱いたいテーマが多岐に及びどこから始めればいいか迷う。

今回は、終盤の、現在の芥正彦の言葉 

「あやふやで卑猥な日本国」

から始めることにする。

これは、三島と芥の共通の敵は何であったのかと問われた際の芥の回答だ。

討論会中に三島が論じたバタイユ的なエロティシズム論・暴力論を受けて選んだ表現だと思うが、私はこれを聞いて絶望を覚え、同時に共闘への熱意を高めた。

今の日本も、彼らが対峙していた日本のままであるし、むしろより<猥褻さ>が蔓延しているではないか。
彼らの戦いがあったにも関わらず、我々日本人は被暴力的な、侵略され続ける<猥褻な>客体でいるではないか。

自己の外に軸を置き、繰り返し犯される立場に留まっているではないか。

私自身は、主体性無き客体の形象としての<女>を脱却しようともがいている人間、ー男と女、主体と客体、暴力と被暴力ー間に、意志力のみでかろうじて自己を維持しつつ強化を試みている中途半端な存在であると前置きしたうえで述べるが、日本はあまりに(上記の意味で)女なのだ。主体性を放棄し、他者から色を塗られ、着せ替えられ、緊縛され、操作され、犯され続けている。

近年、教育界隈で「主体性」なる言葉をよく見聞きするし私自身もその一員であったが、主体性を口にする運動のほとんど全てが、浮ついた欺瞞であることにも気づいてしまった。

主体的であるということは、意識があり、言語により構築された思想を持つことであり、これが人間の精神性であると私は思うが、この精神的主体が意図や行為を持ち客体を志向すると、力を及ぼすという意味で暴力となる。
客体なき主体は成立しないので、主体が意志や行為を属性として帯びていると定義するならば、主体は本質的に暴力性を内在していることになるのだ。

暴力を絶対悪とするならば主体自体を否定することになるが人間が存在している以上それは不可能であるので、暴力は必然的に肯定される。

倫理上それでは問題があるので、暴力を分類分けする。
主体性の欠けた意識薄弱な客体への暴力がまずあり、これは客体は無力なので暴力は一方的である。
もう一方は、暴力性を帯びた主体的他者(主体性のある客体)を志向した暴力である。こちらは他者が無力化されておらず、双方から発せられる暴力の交換がある。

私は原則として前者を倫理的に問題があり容認しない立場をとるが(弱った主体が進んでただの対象者となり暴力を受容することがあるのは承知している、マゾヒズムだ。それは望み選択しているから倫理上の問題は排除されよう)、後者には何の問題も見いだせないし、それどころか、主体と主体の関係はこの暴力の交換無しにはありえないと思っている。

が、これらは一体一の暴力を想定しており、構造的優位に立つ主体や多を内包する組織を主体とする場合は含めていない。だがこの場合でもやはり、無力化された客体を志向する場合は倫理的に悪と定義できると思う。独裁政権を許してはならないのはこの為だ。


ところで私はアナキストである。被暴力を嫌悪するわけがだが、抵抗し闘えば良いのでその態度を取る。闘う為の自由が確保されているならば主体的でいられる。
暴力が向けられること自体は仕方ない、主体はたくさんいるのだから。

だが、私への侵略は許さない。緊縛されて犯され続ける客体になぞ決してなるまい。

暴力に抵抗し対抗するのがアナキズムの根幹だ。
直接的か間接的かは様々だが、闘う主体的他者がおり闘っている。

三島はアナキストではなかったが、本質においては類似している。

彼は敵として共産主義を選んだ、ただそれだけのこと。

三島は討論中でこう述べていた。


「それで私はとにかく共産主義というものを敵にすることに決めたのです。
ですからこれから先ももうどうしようもないので、あくまで共産主義を敵として闘うと。これは主体性ある他者というふうに考えているわけです。」


加えて、弱体化していく日本国(彼の言う天皇中心的日本国に相対するもの)と、恐らくは、自己に潜在する弱さと闘ったのだろう。



ところで、<女>を無力化された猥褻な<客体>の形象として見るならば、私は女を辞めなければならないだろう。特にこの日本において、女を辞めることには意味がありそうだ。日本全体が猥褻な女のようなのだから。

現に、他者を軸にし、見られる客体としての自己に甘んじている女性は私は大嫌いである。
それは女の性質であろうし、私にも自然的に備わっている為、そこを憎み軽蔑し、己の身に常々刃を当てているのだ。

さて教育界隈で頻出するようになった「主体性」だが、彼らはどのような意味合いで使っているのだろうか。主体性を芽生えさせ育てる教育は、対立や分離や決闘の可能性を積極的に肯定することなるはずだが、理解しているのだろうか。

なまぬるい<猥褻な>客体でいながら主体的であるなど、自己矛盾を含んだただの夢でしかない話だ。
また、主体的客体を志向しない主体があるとすれば、それは空虚に対し無音で独口することであり、現実的にはありえないだろう。


主体的である為には言葉による思想を持ち、精神性的存在となることが条件としてあるが、これはつまり他の主体との決闘の可能性を内在しているのだ。


「相手を物体視しないという関係を作る。これは自と他が関係に入っていくただ唯一の方法じゃないかと思う。というのは、エロティシズムというのはある意味では関係じゃないんだ。これは全くサルトルの言ういわゆる猥褻感でありまして、オブジェから誘発される性欲であります。ところが自と他が関係に入っていくということは、そこに既に対立があり闘いがあるということをすなわち意味するんだという事を考えるんです」


暴力性を内在している主体対無力化された客体ではなく、
主体対主体の関係のみが正義であるのだ。


「主体性」を口にする教育関係の人間は相互の尊重の為にという理由で批判を肯定しない立場が多いように思うが、全く矛盾した考えであると思う。先に『浮ついた欺瞞』であると述べたのはそういう事だ。

主体と客体の捉え方を変えれば他の考えも展開されようが、私のとった解釈からは、闘いを放棄する存在様式はありえない。

強さを強要される為厳しいし、時代遅れと揶揄されるかもしれないし、もしかしたら改良の余地がある思想だろう。それは承知だ。

それでもこれを女として語ることには意味があると思っている。
それに、私は私の言葉の系譜を放棄するわけにはいかない。


闘おう、まだ終わってはいない。


人間の言葉や思想は、まだ完全には死んではいないはずだ。
精神的人間は、絶滅はしていない。






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