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フランス ミッテラン政権の外交

以前にジャック・アタリのことを少しまとめたが、そのアタリが深く関わっていたフランス、ミッテラン政権の外交というのが、日本外交に大きな影響を及ぼしていたので、そのことを少しまとめてみたい。

ミッテラン外交

フランソワ・ミッテランは、大統領の権力を増して第五共和政を打ち立てたシャルル・ド・ゴールに代わって、1980年に左派系の勢力を結集して大統領となった。権力を増して、といっても、フランスの大統領は、アメリカの大統領とは違って、行政権は首相が持っているので、それほどの大きな権力はない。だからこそ、外交で火遊びをしようという誘惑にかられるのかもしれないが、とにかく、ド・ゴールのようなまともなビジョンも持っていないのに、やたらに外交的陰謀を張り巡らせ、あちこちに火種を振りまいた。

ヴェルサイユサミット

その最初の舞台が82年のヴェルサイユサミットであった。ここへ向けては、メインテーマとしての経済問題と、裏のテーマとしての安全保障問題があった。裏のテーマの方から見てゆくと、82年には、4月2日にフォークランド紛争が始まっていた。このフォークランド諸島のアルゼンチン側の主張の根拠として大きかったのが、東フォークランドへのフランス入植がイギリスの西フォークランドへの入植よりも1年早く、そしてそのフランスからスペインブルボン朝が購入したとしてイギリスの入植地に侵攻をし、それによって一時的にフォークランド諸島全体の領有権をスペイン勢力が確保していた、ということがあった。その事実関係の真偽は明らかではないが、その島々はその後またイギリスの手元に戻った。そして82年、とにかく戦争などは全く望んでいなかったイギリスに対して、軍事政権下のアルゼンチンはフォークランド侵攻を決め、結局戦争に至った。第二次中東戦争で、国連決議によって停戦を強いられ、結局スエズ運河を失ったイギリスとしては、戦争に対して及び腰であった。意図してかせざるしてか、フォークランド紛争の最中の4月25日には、78年のキャンプデービッド合意によってシナイ半島がイスラエルからエジプトに返還されていた。それは、パレスチナの意思が反映されていないとして、アラブ側からは反対の声が上がっていた。そんなことからも、20年以上前の第二次中東戦争の記憶は否応なしに呼び起こされていた。結局イギリスはその戦いに勝利を収めるわけだが、そんな伏線があって、今度はサミット開催前日に強くイスラエルの立場を主張していたイスラエル駐英大使のシュロモ・アルゴフがロンドンでテロに遭っていた。その犯人はパレスチナ解放機構のメンバーだとされた。それが議論になったか、サミット最終日の6日にはイスラエルがフランスと関わりの深い内戦中のレバノンに侵攻し、駐留していたシリア軍を壊滅させた。この一連の流れの裏にジャック・アタリがいた可能性は否定できない。

インドシナ問題

メインテーマの経済問題についてはジャック・アタリのところでも書いた通り、プラザ合意につながるフラン高への対応ということがあり、その中で、いかに日本にその通貨調整の負担を押し付けるか、というのは、フランスにとって長期的なテーマであった。そんなことがあって、これもサミット終了後の6月25日に第一次教科書問題が火を吹くことになる。何度か触れているこの問題は、中国華北地方への侵略が進出と書き換えられた、との報道が出たことが問題の発端となった。調査の結果、実際にはそのような例はなく、ただ東南アジアについては進出と書き換えられたという例があったという。それがフランス領インドシナに関わることであるのならば、ヴィシー政権との合意の上での明らかな進出であったのだが、ヴィシー政権の正当性というのは、それに協力していたという過去を持つミッテランにとっては認めることのできないことであり、また、南部仏印進駐がハルノートを経由して太平洋戦争に繋がったという史観からは、それは進出ではあってはならないものであった。その教科書問題の報道に先立って、6月22日にはカンボジアでシアヌークを中心とした反ベトナムの連立政権が成立しており、その反ベトナムの意味するところは、南ベトナム、さらに遡ればフランス傀儡のコーチシナ共和国に反対する、というものであり、それは南部仏印進駐の真の姿を明らかにする動きであったと言える。このあたり、インドシナ情勢は複雑怪奇でとても一筋縄では読み解けないのだが、その中でポルポト派のナンバースリーとされるキュー・サムファンは、パリ大学に留学し、左翼系のフランス語新聞を出していたということもあり、フランス系の共産主義とはかなり関わりが深かった様子。そこからミッテランの人脈につながるというのは不思議なことではなく、民主派三派連合の外務担当副大統領に収まったのは、その人脈がモノを言っているのだと思われる。つまり、フランスは、キュー・サムファンを通じて、戦時中のインドシナでのフランスの存在をロンダリングしていた可能性があり、その流れの一環としての教科書問題だったのでは、と考えられる。そこで戦争責任をなるべく日本側に押し付けることで、通貨交渉を含めた外交交渉を有利に運ぼうとしたのだと思われる。

プラザ合意

ついで85年にはプラザ合意があった。これについてはジャック・アタリのところでも多少書いたし、フランスだけの視点で纏まるものではないので、また別途書くことにする。

アルシュサミット

そして、89年に第15回サミットが再びフランスのパリ・アルシュで行われた。この時もやはりジャック・アタリが絡んでいたのだが、ちょうどフランス革命200周年行事が開催されていたということで、開発途上国首脳が多数参加したという。その年は、正月早々に昭和天皇が崩御され、また、アメリカでは8年間のレーガン政権が終わって、その副大統領を務めていたブッシュの政権が始まっていた。ポーランドでは連帯が合法化され、円卓会議が始まっており、ソ連でも初の議員選挙が行われ、ソビエト共産党が敗北した。ハンガリーとオーストリア国境では鉄のカーテンが破られ始め、共産主義の崩壊の兆しが明らかになっていた。動乱の動きの一方で、2月15日にはソ連がアフガニスタンからの撤退を終了させ、4月5日にはベトナムがカンボジアからの撤退を発表している。あちこちで紛争の手仕舞いがされる中で、新たな戦乱を求める人がいたのかもしれない。

宇野宗佑

日本では、リクルート事件によって竹下政権が行き詰まり、外務大臣を務めていた宇野宗佑が総理となった。このあたり、国内政治について書くとまた非常に生臭くなるので、外交面に徹して書くこととする。宇野内閣は6月3日に成立したが、翌4日には中国で天安門事件が発生している。そしてそれはポーランド議会選挙の第一回投票と同じ日であり、その投票では連帯が獲得議席99%超の圧勝を収めている。天安門事件は、元は4月15日に亡くなった胡耀邦の死を悼むものとして始まった動きで、それからは一月半も経過している。その間に鄧小平がその急速な改革路線を批判していたソ連のゴルバチョフが訪中するということがあった。国際報道ではゴルバチョフの改革派ぶりが強調され、それがデモを後押しすることにもなったと言える。ゴルバチョフ帰国後の5月19日には、趙紫陽が失脚した上で、戒厳令が発令される。そして、宇野宗佑の就任を見届けたかのように3日の夜遅くから翌4日の未明にかけて李鵬首相の指示によって人民解放軍が天安門広場の民衆に対して投入されたのだ。それはテレビの国際放送によって世界中に報道され、同日のポーランドの連帯の圧倒的勝利と著しい対照を成すことになる。そんな仕組まれた動きの中での7月14日からのサミット開催となった。宇野総理は、これに対して、円借款の凍結はしたものの、中国を孤立させないことを強く主張し、それによってドミノ的な中国の崩壊、そしてアジアの大混乱というものが避けられたのだと言える。このスケジュールは、明らかに計算されたものであり、このハンドリング次第では世界中が大混乱に陥ってもおかしくはなかった。少なくとも日本では、総理就任直後から女性問題について報道が出ており、国内の政局については最初から計算通りであったとみられる。そんな状態で、サミットを非常にうまく乗り切り、それだけをこなしてサッとやめた宇野宗佑という人物の非凡さは際立っている。国内政治を絡ませることなくこれ以上書くのは難しいのでここまでにしておくが、戦後宰相の中では最も優れた名宰相の一人であったと言って良いのではないか。

フランスの動き

フランスについての話につながらなかったが、89年サミットに関してはそれほど主体的に動いていたという感じではない。ただ、5月24日にフランスは、アフリカ35カ国の公的債務を全部帳消しにすることを発表した。これは、フランスの援助の中心であるアフリカ諸国については、すでに重債務状態であり、債権放棄以外に取りうるべき手立てがほとんどないという状態で、いかに他の国も巻き込んで負担をシェアするかという戦略的な問題であり、言っていることは正論かもしれないが、それはそもそもフランスの植民地経営そしてその後の関与の不味さに由来していることであり、その政治的巻き添えをフランスの名声のもとに他国が被るというのはなんとも良い感じはしない。後は、国際政治はゴルバチョフが暴れるのに任せ、フランスはむしろ通貨問題を中心とした経済問題に集中していたように見える。それは、この時期コアビタシオンで首相を保守系のジャック・シラクが務めていた、ということが関わっていそう。

ここから先は、もう時期は外れただろうが、それでもまだ多少生臭さもあるだろうから有料にしておきます。とはいっても、30年も昔の69日でやめた総理大臣の名誉回復をしようというだけの話なので、大したことはありません。


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