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【Lonely Wikipedia】ジャック・アタリ

9月2日付日経新聞7面グローバル・オピニオンにジャック・アタリが出ていた。「中国共産党が、台湾への軍事的な賭けに出ることで、問題を先送りしようとしていることもわかっている。」などと訳知り顔で述べているが、何が彼にこのような訳知り顔をさせるのか。それを追ってみたい。

アフリカ・アルジェリア出身

ジャック・アタリ(仏: Jacques Attali、1943年11月1日 - )は、フランスの経済学者、思想家、作家、政治顧問。旧フランス領アルジェリアの首都アルジェ出身のユダヤ系フランス人。ミッテラン政権以後、長きに渡り、仏政権の中枢で重要な役割を担った人物として知られ、つづくサルコジ、オランド、マクロン大統領にも直接的な影響を与えており、フランスのみならず欧州を代表する知性のひとりと目されている。

フランス領アルジェリア出身のユダヤ人とのこと。

根深い問題がありそうだが、簡単には手が出ない。

ローラン・ファビウスとの関係

「ミッテランの秘蔵っ子」と呼ばれ、 1984年7月にはナポレオン1世以来の最年少である37歳で首相に就任するローラン・ファビウスは、リセで3つ年下の同窓だという。ファビウスと知り合いだからミッテランに重用されたと言うよりも、ファビウスの方がアタリによって引き上げられたのでは、という感じは受ける。というのは、65年にミッテランと面識があったというアタリは、その年にあった大統領選でその面識を得たのではないかと考えられ、そのミッテランは

1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言し、反徒への射殺を命じて独立運動の鎮圧を図った。
ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令を受けたものだとされている。

ということで、アタリがフランスに移住する原因となったとも考えられるアルジェリア独立戦争と深く関わっているからだ。

プラザ合意の黒幕?

なぜアタリに注目するかと言えば、彼がプラザ合意の黒幕ではないかと疑っているからだ。そこで、そこまでの彼の動きを見てみたい。

1979年、国際的なNGO団体、飢餓撲滅行動(Action Contre La Faim)を共同設立した。
1981年、ミッテランが大統領に選ばれると、特別顧問に指名された。
1982年、「シェルパ」としてベルサイユG7サミット(第八回先進国首脳会議)を組織した。
1984年、新技術開発を旨としたプログラムEUREKAを創立に関わった。

飢餓問題への関心

79年は中越戦争が終わった年で、ベトナム戦争以来ずっと戦争が続いていたベトナムにようやく平和が訪れ、第2次世界大戦などに関わる歴史の整理にも取り組むことができるようになった。経済的混乱が起こった時に支援して、それによってフランス領インドシナの印象改善を図ろうとしたものかも知れない。実際、45年にベトナムでは飢饉が起きたことになっており、それが日本軍の責任であるとするのに何らかの影響を及ぼした可能性はある。

経済政策

ミッテラン政権初期には、

The objective was to boost economic demand and thus economic activity (Keynesianism), but the stimulative fiscal policy implemented by the Mauroy government was in contradiction with the constrained monetary policy implemented by the Bank of France. However, unemployment continued to grow, and the franc was devalued three times.

拡張的財政政策と緊縮的金融政策をとったが、失業率は上がり続け。フランは切り下げられた。同時期のレーガノミクスと同じポリシーミックスのこの政策によって、79年に導入されたばかりのEMS内での輸入が増大し、実需によるフラン安が進行したということだろうか。一方完全変動相場のアメリカでは高金利からドル高につながったと言うことになるのか。

フォークランド紛争

82年6月のサミットだが、この年の2月にフォークランド紛争が発生している。

1764年にフランスは東フォークランド島に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。スペイン・ブルボン朝は、1767年にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、1770年にはブエノスアイレスからエグモント港に侵攻した。

ということで。3年間だけフランス所有があるという不思議なことになっている。これは、フランスがアルゼンチンに肩入れするために、無理矢理何らかの証拠をつくり、アルゼンチンの領有権主張を正当化したのではないかと疑われる。アルゼンチンは親米政権だったが、アメリカはさすがにこの話には乗らず、イギリス側に立った。

その後6月にヴェルサイユサミットが行われ、その2ヶ月後8月に、同じく旧スペイン語圏のメキシコで債務危機がおきることになる。
これは、サミットで、何らかの仕込み、あるいは少なくとも調整はあったのではないかと考えられる。

ファビウス首相

84年にはファビウスが首相となり、緊縮財政に舵を切る。

1981年5月、ミッテラン政権発足と共に、予算担当相に就任する。1983年には産業・研究相に就任し、さらに1984年7月にはナポレオン1世以来の最年少である37歳で首相に就任する(この記録は現在まで破られていない)。1981年より続いていた同政権の社会主義的政策を急転換させ、緊縮財政・市場経済重視の政策を行なった。1985年予算案は経済再建を軸にした超緊縮型予算で、歳入面では所得税・法人税の減税、社会保障関係の国民・企業負担の軽減、社会保障支出削減が打ち出された。インフレ政策は成功し、1981年に14パーセントを記録したインフレ率も、1985年には5パーセント以下となった。ただ、失業者対策は完全に破綻し、1980年から1985年の間に失業者の数は約75万人増加した。1985年には失業率は10.4パーセント、失業者の数は300万人に達した。

尤も、拡張政策の時に予算担当相をやっていて、それを産業・研究相でロンダリングしてから政策転換するのだから、経済についての何らかの定見を持っていた人物ではないのは明らか。要するにアタリの操り人形と言うことだろう。

産業・研究相に関わることでは、当時フランスでは高速増殖炉のSuper Phoenixの建設が完了したが、まだ稼働していない状態だった。82年にロケット攻撃を受けたそれが85年に稼働するので、その対応をしたのだろう。
EUREKAというのも、そんなことに関わっていたのかも知れない。結局原子力に固執しているのはフランスだけと言えるので、功を奏したとは言えないのだろうが。

為替の動き

さて、85年だが、レーガン大統領の2期目の開始で幕を開けると、為替は全体的にドル安に振れ、特に円とフランスフランが急速に値を上げた。

これは、ずっとフラン安が続いていたフランスがそれを反転させようと何かを仕掛けた疑いがある。政策的にはそれらしい物は特に見つからなかったのだが、一つ気になったのが、1月28日にレコーディングされたWe are the Worldだ。

USA For Africa

84年の末にエチオピア飢饉援助のためのバンドエイドが成功を収め、それを見て ハリー・ベラフォンテ、マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、クインシー・ジョーンズといったアフリカ系にルーツを持つ人々が同じくエチオピア飢饉支援のために集まり、「ウィ・アー・ザ・ワールド」が作られた。プロジェクト名はUSAフォー・アフリカだった。つまり、よりアフリカというものを前面に出したのだ。

アフリカからの撤退

その後3月25日に、ひっそりとアフリカ・マダガスカル連合というフランス語圏諸国による協力組織が解散した。

これは、フランスの旧植民地からの撤退の方向性を示すものであり、世界の関心をアフリカに向けて、その隙に自分たちは身をひく、というやり方をとったわけだ。

アジアでの陰謀

そして8月にプラザ合意があり、特に円は急速に高くなる。その頃からODA、特にアフリカ向けのものが急速に伸び始め、89年から10年ほどはほぼ世界第一位の海外援助国となった。

一方で、プラザ合意の直前85年8月15日には中国で南京大虐殺記念館が開館している。

中国に対しては、79年からODAの供与が始まり、その後82年に全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示が出て、その一環としてこれが建設されている。建設開始は85年2月であり、レーガン第2次政権発足直後、そしてUSAフォー・アフリカも動き出していた。プラザ合意への動きも始まっていたと考えられ、そこへ向けて日本のODA拡大がその国際的威信の上昇につながらないように釘を刺した、という可能性がある。

そういう仕込みで中国に恩を売っておいて、今回の台湾海峡への煽りとなるわけだ。


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