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アメリカから見たプラザ合意

明日はプラザ合意記念日ということで、プラザ合意に戻って書いてみたい。フランスのジャック・アタリの果たした役割については既にみたが、今度はアメリカ側から眺めてみる。

レーガン政権

当時のアメリカは、レーガン政権2期目の最初の年。レーガンは、スターウォーズ構想など、冷戦末期の米ソ関係を先鋭化させていた。一方、相手方のソ連では、レーガンの1期目の間に、ブレジネフ、アンドロポフと2代の書記長を経てチェルネンコが就任したが、そのチェルネンコも就任後わずか1年、レーガンの2期目が始まって2ヶ月で亡くなり、若いゴルバチョフが後を継いでいた。ソ連に変革の予感が吹き始める中で、アメリカ側でもレーガノミクスによる双子の赤字の拡大で、何らかの路線変更が求められていた。財政の赤字は金利の上昇をもたらし、それが貿易赤字によるドル安圧力よりも強かったために、ドルも貿易の実力以上に高くなっていた。そのドル高高金利は、中南米でのドル建て債務を必要以上に膨らませて82年には債務危機を引き起こし、基軸通貨としてのドルはもはや風前の灯であったと言って良い。つまり、貿易だけでなく、金融の面においても、アメリカは危機的な状況にあったのだ。

レーガン政権の経済担当幹部

そんなアメリカ経済の舵取りをしていたのが、財務長官のリーガンと連銀総裁のポール・ボルカーであった。リーガンはメリルリンチの出身で、レーガノミクスと呼ばれるサプライサイド経済学に基づいた政策を推し進めた。ボルカーは、財務大臣が目まぐるしく変わったニクソン政権で長期にわたって通貨担当の財務事務次官を務め、金本位停止のニクソンショックの実務面を取り仕切っていた。大学の卒業論文で戦後のインフレをもたらした連銀の政策を批判したボルカーは、金本位停止によるドル基軸体制での世界的物価上昇の可能性を理解していなかったわけがない。少なくとも、そのような政策は、財務省証券残高のうち当時600億ドル弱で総残高の15%以上を占めていたと考えられる外国の債権者に対しては事前に相談があって然るべきだったと言えよう。そうでなければ、借金の一方的な踏み倒しであり、一般社会ならば許される話ではない。もっとも、それにもかかわらず、基軸通貨である以上、その後も財務省証券の外国人保有高はさらに増え始めており、そして残念ながらその増えた部分のほとんどが、貿易黒字を積み上げた日本であったことは容易に想像できる。それはともかく、そのような政策を実行した人物がのちに連銀の総裁を務めることになるのだから、人は出世のためだったら何でもできるのだろう。

グローバルインフレとオイルショック

世界的インフレ自体は、その後のOPEC結成に伴う第一次オイルショックによって、ニクソンショックの影響は希釈され、完全に責任転嫁に成功したと言える。なお、オイルショックは第四次中東戦争によって起きたのだが、その戦争は負けっぱなしでは交渉仲介はできない、と言って戦争を仕向けた当時の安全保障担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーの示唆による部分が非常に大きい。つまり、金本位停止による世界インフレの責任転嫁のために、アラブ側を唆してイスラエルに攻め込ませた上に、OPECに原油値上げを許してオイルショックを人為的に作り出した疑いがあるのだ。しかしながら、結局そのオイルショックがソ連の石油の戦略性を大幅に上昇させ、それによってブレジネフ政権下でのソ連の国力の急速な充実につながってゆく。それへの反応として、レーガンの強硬な対ソ連政策となるわけで、それが軍事費の増大による財政赤字の拡大へとつながる。結局業は回り回って自分のところに戻ってくる、という話なのだが、その矛盾解消のための痰壷とされたのがプラザ合意での日本だったと言える。

S&L問題

ボルカーは、レーガンよりも一足先の79年に連銀総裁に就任し、その第一歩としてS&L問題の対応を行なった。S&Lとは貯蓄貸付組合で、銀行業の規制外で銀行と同じような融資業務を行っていたアメリカの中小金融業者である。預金金利を銀行よりも高くつけることができたこともあり、全米でかなりの数があり、不動産を中心とした生活金融としては圧倒的な影響力を持っていた。元々は決済機能を持っていなかったのだが、78年11月の法改正で小切手の発行ができるようになり、銀行とほぼ変わらない営業ができるようになっていた。これは、第一次オイルショック後に金利が上がり始めてS&Lの高い預金金利のメリットが薄れ始めた上に、78年から起こっていたイラン革命の前兆のデモがどんどん激しくなり、78年5月頃から金利が急上昇し始め、S&Lの経営が厳しくなってきたので、一般銀行とほぼ変わらない業務をできるようにしたのだ。ボルカーは、この金利の急上昇の時期に連銀総裁に任命され、就任直後からインフレ退治を大きなテーマに掲げた。一方で80年にはそんなS&Lへの規制がさらに緩和され、貸し出しを拡大させた。軍事支出の拡大で、財政の余地があまりない政府を金融面で下支えするためだと言える。これは金融緩和、インフレ政策であり、80年の半ばまでにはインフレ率は13%を超えていた。アメリカ国民の借金漬け体質というのはこの時に本格的に始まったと考えて良いのではないだろうか。財政も借金、貿易も借金、そして国民も借金という双子どころか三つ子の赤字で軍事支出を支えるという、張り子の虎顔負けの中身空っぽの軍事拡張であった。

(補足)国民の赤字

国民も借金という言い方は、会計上は正しくはならなくて、財政と貿易が赤字ならば家計と資本支出は黒字になるのは当然のことで、ただ、その家計から大資産家を除いてどれくらいの水準から赤字になるのか、ということを確かめたかったのだが、数字は見つけられなかった。たどれたところまでで、85年段階で、アメリカの家計の金融資産残高がだいたい8億ドルに対して家計の債務がだいたい2.5億ドル。金融資産のうち上位1%が保有しているのがだいたい20%だったということで、99%の持つ6.4億ドルの金融資産に対して2.5億ドルの家計債務があったことになる。所得のジニ係数が0.38であったことからざっくりで考えて60%くらいの家計は赤字だったと考えて良いのかもしれない。なお、80年代に債務残高は年間10%程度の勢いで伸びていた。

日本国内の戦争責任問題

そんなレーガン政権に対して、日本側は、1期目の前半が鈴木善幸内閣、あとはずっと中曽根内閣が政権を担っていた。鈴木内閣は、教科書問題によって大きなダメージを受けた。教科書問題は、戦時中の東南アジアへの関わりが進出であったのか、侵略であったのかということが問われた問題であった。これは、東南アジアにおける日本のプレゼンス、それは典型的には金融面で具現化するのだが、それが拡大する中で、進出であれば融資となるものが、侵略と定義されることで賠償支払いに切り替わりかねない重要な問題であった。そんな馬鹿げた話はあり得ないのだが、言葉一つでそのように変わり得ることであり、しかも、賠償となれば、現地政府と癒着してその旨みにありつくことができるという一部実業界の暗黙の意図もあり、そんなことが国内政治を動かす鍵となっていった。鈴木善幸内閣の次に内閣となった中曽根は、そのような問題から逃れるためにはひたすら対米従属するしかないと判断したか、不沈空母なる言葉まで持ち出して冷戦構造の中でのアメリカの太鼓持ちに徹する政策をとった。そんな中で、アジア諸国への賠償問題の圧力を、アメリカの赤字をファイナンスすることで、当面凌ぐことができる、という方向へ流れていったのだ。それは、アメリカ唯一の競争力の源泉であると言っても良い軍事装備品を購入することでも示された。なお、中曽根内閣になって最初の選挙で自民党は敗れて単独政権を立てられなくなり、新自由クラブと連立を組んでいる。新自由クラブ代表の田川誠一は新聞記者から政治家となっており、教科書問題を引き起こした新聞各社とは少なからぬつながりがあった。

プリンストン大学の事情

その後、85年にリーガンが大統領補佐官に移り、ベーカーが財務長官となって、ドル高政策を修正することになる。そうして8月のプラザ合意へと至るのだ。85年には日米構造協議で日本叩きが非常に激しくなっており、貿易、金融、通貨といったあらゆる面で日本に負担を押し付けることが、この政策変更によって定まったのだと言える。この時期には、中曽根が靖国神社に参拝したこともあり、日中関係も冷え込み始めていた。これは、あわよくば第二次世界大戦の再現で、日本と中国を対立させて戦争にでも仕向けられたら上出来、という考えもあったのだろう。その路線を引っ張ったのが、プリンストン大学の第二次大戦時の事情なのであろうと考えられる。プリンストン大学は、ニュージャージーにある名門大学であるが、戦時中にナチスの迫害を逃れてアメリカに渡ってきた学者などを多く引き受け、その中にはアインシュタインも含まれていたということで、特に物理学の研究が飛躍的に伸び、そこから原爆開発にも繋がっていったということがあった。ドイツ系であるボルカーはそのプリンストン大学で上記の卒業論文を出しており、また、カーター政権で財務大臣を務め、78年の金融改革法の担当であったブルーメンソールも、まさにドイツから逃れてきたユダヤ人で、戦後にプリンストン大学を卒業している。リーガンの後に財務大臣となったベーカーもプリンストンの出身であった。つまり、危ない橋はドイツ系も絡んだプリンストン出身者にわたらせて、その実裏で糸を引いているのはキッシンジャーのような、ホロコーストで「被害者」となったユダヤ系であるという、第二次世界大戦の歴史観を確定してゆく作業と同時進行で行われていた、ということなのだ。その一環として、日本の戦争責任的なものも強く頭にねじ込んで、痰壷となってプラザ合意でも日米構造協議でも、何でも受け入れるよう仕向けられる、そしてそれが嫌なら中国と戦争でもして汚名を濯げ、とでも言わんばかりの暗黙の強い圧力をかけ、その一方でプリンストンに関わるような原爆の責任については、プリンストンの名において徹底的に黙らせる、という、何とも悍ましい政治的構図の中で、プラザ合意という、国際政治なる神の意思に従って市場が動くのだ、という体制づくりの礎石として日本は深く埋めつけられた、ということになるのだ。

そのプラザ合意の36回目の「記念日」が、明日22日にやってくる。

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