政治で動く世界の虚しさ

問題解決が個別でなされれば、それぞれ自分が問題だと思ったことを自分で解決してゆけば良く、それは非常にシンプルな世界になる。しかしながら、社会を前提として、問題を政治的に解決、ということになると、とりわけ民主主義の社会では、途端に問題解決が複雑になる。

まず、問題の共有ということを行わなければ、自分だけが問題だと思っていることを、政治で解決すべき問題である、という形にできない。つまり、自分の問題をわざわざ社会化し、これが問題だ、と、社会に対してアピールしなければならない、ということになる。さもなければ、社会の中で問題であると認識されず、解決すべきテーマにも上がってこないからだ。

問題であるとアピールするためには、他の人に対して、自分が問題だと思っていることを、ある意味で押し付けをしてでも、問題であるという感覚を持ってもらう必要が出てくる。押し付けをして問題の感覚が共有されれば、問題だと言ったのだから解決しなければならなくなり、さらに多くの人に問題の感覚を押し付け、民主主義ならば過半数に至るまでの人に対して問題であるということを共有してもらった上で、さらにその解決も押し付けて過半数の賛成を得るまでそれを繰り返さなければならなくなる。

さらに問題なのは、過半数に近づくなど支持してくれる人が多くなればなるほどその問題解決の主導権争い、つまりどのようなやり方、順序で問題を解決してゆくか、ということを競争的に定めないといけなくなることだ。問題が一般的であればあるほど、その問題を提起した正当性のようなことが問われ、なぜその問題を問題だと思い、それを主導して解決しないといけないのか、という、極めてどうでも良いことを縷々自己正当化して説明しなければならなくなる。手順が強引ならば、権力の不当行使だと非難にさらされ、流れに乗って上手くやれば嫉妬ややっかみに取り憑かれ、やらなれば無能の批判に晒される。

一人一人が淡々と自分のやり方で自分の問題解決を行い、それが結果として社会に少しでも影響を与えて社会自体が変わってゆくという自然なやり方が、とりわけ数の力で押し切る必要のある民主主義の世界では、なかなか認められ難く、とにかく数を集め、その中に自分の考えを流し込み、なるべく人に苦労を押し付けながら、いかに果実を確保するのか、というどうしようもない駆け引きを延々と繰り返し、社会の中での処世術にたけるよう自己鍛錬し続けないといけなくなる。

負担と成果が見合うように、やっているふりを上手にしたり、言ったことと行動を合わせるよう強いられたり、あるいは押し付けと謙譲の演技を上手くやるように迫られたりするようになり、本音と建前に溢れた、そして示唆によってわかれよ、という空気に満ち満ちた、さらには流れをうまく掴むよう小器用に立ち回るようせかせかして出し抜きの雰囲気にあふれた、無意味ないやらしい世界になる。

政治的手順では、なるべく大きなところからうまく利益を引き出してくる、という技術が求められ、そのためには誰かを騙して生贄のように扱いながら、うまく嘘を織り込んで自分の利益を確保し、ババ抜きゲームで政治的利益の分配を行うことになり、そのために一番楽なのは自国政府を貶めてそこから財政支出を引き出す、ということになる。いずれにしても、問題の社会化とは政府が悪いからそれをあ改める、という理屈になりがちで、だからどれだけ財政を引っ張ってくるかが能力の証明のようになるという、破滅へのチキンレースを日々繰り返す極めて退廃的な社会になってしまうのだろう。

なんか、どうしようもない愚痴になってしまったが、いずれにしても、私は、とりわけタカリ能力を競うような、代表による代表制間接民主制という仕組みはもはや限界で、特に全体を見渡すことが極めて困難な国民国家という規模で、小選挙区という一人のボスザルを選んでそれらがさらにボスザル争いを繰り広げるという、見苦しいことこの上ないあり方は救いようがないのでは、と考えざるを得なくなっている。あまりに虚しくなってしまったので、ここまでとする。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。