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続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来 (4)

備後福山2

さて、前回日清戦争のあたりで、大坂の陣の話を展開させながら、新政府が大阪にまでようやく進出したのでは、という推測まで進んだ。そうなると、日清戦争というのは、現状、清を相手に朝鮮半島を主戦場にして戦われたことになっているが、もしかしたら新政府の東方進出と同期して行われていた可能性があるのかもしれない。それが憲法制定や国会開設と重なっていることから、東方進出の錦の御旗として、憲法や国会を掲げて、まだ新政府を完全に信服していたわけではない地域に少しずつ入り込んでいったのではないだろうか。

三井財閥の動き

その日清戦争に先立って、中上川彦次郎率いる三井は拡大路線にのって王子製紙・鐘淵紡績・芝浦製作所などを傘下に置いて工業化路線をとっている。このうち王子製紙に関してはその設立前に広島藩主浅野家が別の製紙会社である有恒社を設立したとされるが、第一次世界大戦後に王子製紙の傘下に入り、関東大震災後に解散しているようで、なんらかの曰くがありそう。三井を追ってゆくと他にも次から次へと書きたいことが出てきてしまって、一向に前に進まなくなってしまうので、一旦先へ進む。

キリシタン問題と鉄砲

この大坂の陣の話を展開させることで戦国末期の話の整理はついたが、特にキリシタンの問題についてはそれでは治らなかったのではないかと考えられる。そこでさらに島原の乱の話が必要となったのではないか。大坂の陣自体は名京都所司代とされる板倉勝重が方広寺の鐘の問題などで大阪方を追い詰めて起きたが、島原の乱では勝重の息子である重昌が最初総大将を務めたが討死をし、その後を受けて松平信綱が総大将となってこれを平定している。この話が展開されたのは、おそらく日清戦争から、大坂の陣と島原の乱との間が同じくらいの第一次世界大戦から関東大震災にあたる時期であり、浅野財閥はその時期に急激に大きくなり、理研の所長に大河内正敏が就任したのも関東大震災の2年前で、さまざまな事業のネタを集めるのに、異教徒を排除するような文脈で、かつキリスト教の力を使って元から西洋にあった技術だとして、伝統文化から固有の技術を収奪するために島原の乱を用いた可能性があるのではないだろうか。奇しくもこれに少し先立つ明治43年には、鉄砲が大量に使われた合戦として名高い長篠合戦について詳述された『愛知縣南設楽郡誌』がキリスト教に関わる国会議員を複数序文の執筆に迎えて発刊されている。関東大震災前後のこの頃おそらく北関東から関東方面に西日本の勢力が進出する時期にあたっており、そこで三河吉田藩とともに上州高崎藩松平氏の祖ともなる松平信綱にあやかる形で、長篠合戦で討死した真田信綱という人物を昌幸の兄として据えたのではないか。幸村が信繁と言い換えられたのも、もしかしたらその影響なのかもしれない。幸の字は山中鹿之介や尼崎藩青山氏の通字として通りが良かったのだろうが、それを東国の話に移し替えるのに、武田につながる信の字が有利になると考えて名を変えた可能性がありそう。そして、関東大震災を機として一気に南関東、東京へ雪崩れ込んだ、ということになるのではないか。ただし、東京への首都移転に関しては、もっと時期があとずれする可能性もありそうで、更なる検討が必要だろう。

三井の大改革

その時期に三井でいったい何が起こっていたかといえば、明治44(1911)年合名会社組織だった三井銀行を株式体制に改める改革に際して、池田成彬が常務取締役に選任され、以後、23年間にわたって常務のポストを占め、大正8(1919)年には筆頭常務となっていたという。三井銀行については、もしかしたら、三井家の高の通字を考えると、それによって中国地方の南北朝時代の高師直など高(こう)氏の話を元手にして銀行を作る、という事になったのかもしれない。つまり、三井という特定の家があったというよりも、南北朝について、太平記やその他の公的な記録に基づいたものについておかしいと考える人々が高(こう)氏の話を軸に再集結し、そこで銀行を作ってなるべく真っ当な文脈の上に近代化を進めようとしたのではないだろうか。それは、住友にもつながることではあるが、住友は皇室の血を引く住友家を奉じることで恐らく北朝の系統を通じて平安時代の承平・天慶の乱まで遡れるようにした一方で、三井は南北朝に関しては皇室というよりも高(こう)氏の話を軸にすることで、特に事業と結びつけることで、より広い話を残そうとしたものだと考えられる。その点において、三井の持ち株会社が三井合名であったというのは、一つの家というよりも、さまざまな話を結集し、仮に三井家としてまとまった人々の会社の作り方としては非常に理にかなっていたと考えられる。それを株式会社として資本に従属するようにしてしまったのが池田による改革であったといえよう。この辺りは前シリーズの会社法成立の流れを参照しながら考えるとより風景が鮮明になりそう。

福山藩主阿部正弘

福山の話から随分とずれてしまったが、これは、なぜ阿部正弘が日米和親条約締結で主導的な地位を占めたのか、ということから発展した話であった。阿部氏が徳川康系統の最初である清康を討った正豊の別系統であるというところは見た。阿部氏というのは、恐らく元々は安曇氏が安部となったものではないかと考えられ、それが『日本書紀』の阿倍比羅夫、『続日本紀』の阿倍仲麻呂、あるいは陰陽師の安倍晴明、さらには奥州の役の安倍貞任、宗任といった人々についての文脈解釈につながると考えられそう。そしてそれは『日本書紀』の中でも、対外関係で特に重要な比羅夫の関わった白村江の戦い、仲麻呂が唐にわたって安南の総督にまでなったという唐の記録にも出てくる話にもつながることで、それは成立時期から考えると、『日本書紀』の記述を元にしたという可能性もあり、日本の歴史記述が中世以前から海外のそれに影響していたかもしれないという重大な可能性を示唆するものとなる。さらには、比羅夫の足取りを考えると、奥州の役は今の奥州にまで行くことなく、日本海側の山陰地方のどこかであったと考える方がより現実味があるのではないだろうか。そして、安倍晴明の陰陽道の陰陽という言葉自体、山陰と山陽という地方名に深く影響しているのではないかと考えられ、また現在の韓国の国旗をみると、比羅夫の活躍も含めそれが朝鮮半島にも何らかの影響を及ぼしている可能性が考えられ、天日槍の伝承にもつながるような新羅の建国神話との関わりについてもさらに精査が求められるのではないか。ただ、太極の図柄についての初見は北宋の時代であるという。
つまり、阿部氏というのは、その字違いの氏族を含め、その解釈次第で中国との歴史の接続が大きく変わってくるという重要な役回りを演じているのではないかと考えられる。そして、安曇氏は海の人々である可能性があり、渡来系伝承にも関わってくる。そういった文脈を引き継ぎ、そして徐福に通じる福山という名、吉備津神社や素盞嗚神社を領内に持つ阿部氏が、文脈的に対外関係と関わる意味がある。

清康の康の字から見えること

一方で、康の字がどこから出たかを追うのは容易ではないが、著名な人物としては、土岐頼康や康行といった、南北朝から室町期に活動した土岐氏の中に見られる。とりわけ頼康は半済令を実施した守護大名として知られており、それによってまだ律令の名残を残した鎌倉時代的な租税体系が完全に崩壊したと言える。それは、皇室と臣民との関係をどう捉えるのか、という点で非常に大きな転換点で、というのは守護とは朝廷ではなく征夷大将軍が任命する職であり、鎌倉時代には租税の徴収権は持っていなかった。それが租税にかかわるようになることで、朝廷との間に将軍、守護という中抜きの存在が現れることになりその意味で国家管理、というよりも国家の力を背景とした中央経由の有力者の力が強まり、一般の臣民への支配力を強めたのだと言える。そんなことに関わった康の通字を討つことで、徳川の中でも初代家康のもつ守護的な要素を消し去ったのだといえ、それは結局江戸幕府においては守護が任命されることがなかったということに繋がってくるのではないだろうか。

土岐氏から見えること

土岐氏の話がいつどのように形成されたかはまた興味深い話ではあるが、ここではその中で、頼康が半済を出した国の一つである尾張に関わる部分を、多少時代を前後させながら少しみてみたい。江戸幕府において家康系の将軍が七代で途絶えたあと、尾張を拠点としていた御三家筆頭尾張徳川家の弟の流れに当たる紀州徳川家から吉宗が将軍となったが、それはもしかしたら国の名前が、もともと厳島から廿日市を伊勢、広島を尾張、安芸東部、特に福山の北側、芦田川と高屋川が合流するあたりを三河として話をしていたのが、実は安芸東部が紀州であった、というように話を切り替えた可能性もあるのではないか。というのは、広島の少し東に熊野町があり、世羅に元高野山があるということから、芸州東部から備後に至るあたりが元々紀州と呼ばれていた場所だったと話をずらした可能性もあるのではないかと感じられるからだ。そして土岐氏というのは時氏、すなわち、高氏を”こう氏”であると考えた時に高氏を足利にしたのと同様に、『難太平記』において時氏は山名氏となっている。つまり、『太平記』に対する不満を示している『難太平記』で主筋となっている山名氏を土岐氏に切り替えて別の話を動かし始めた、つまり、尾張の北にある美濃国の土岐氏ということで安芸北部を美濃とし、そこから毛利元就の話と斎藤道三の話を一つの話の別解釈のような形で並行展開させていった可能性もあるのではないか。また、他にも三河という名をつけそうな可能性がある場所として、三次という場所もあり、そこに支藩を立てたとされる浅野氏は、土岐氏流であるということもあり、この話の展開に絡んでいた可能性がありそう。そうなると、三次藩から同じく浅野氏である赤穂藩に嫁が出ているということもあり、その赤穂藩に関わる『忠臣蔵』で、『難太平記』の今川よりも格の高い高家(この名自体”こう氏”との更なる混乱を意図しているのでは、と考えられる)の吉良を赤穂浅野氏家臣が仇討ちで退治するということで、南北朝に関わるさまざまな話の不満をあれやこれやで消し去ろうとしてきた、という動きが見てとれそう。浅野財閥というのは、このような話を聞いて含ませることによってさまざまな事業を集めてできたものなのかもしれない。

阿部氏の幕末における意味

そんな動きがある中で、阿部氏というのはそれでも譜代大名であり、なぜ清康を討ったのかということを含め、松平の線から南北朝に到達する経路を持っていたのかもしれない。しかし、いずれにしても、松平の線は世良田から新田につながる南朝の線であり、それがそのまま受け入れられるものではないことは言うまでもない。しかしながら、その線のどこかおかしいのか、と言うことは押さえておかないと、幕末に起こった新政府側ではない方、所謂旧幕府側とされる側でなされた努力が、全て浅野のようなやり方によって収奪されてしまう可能性があったのではないかと考えられる。阿部氏が求められた役割の一部には、その動きに歯止めをかけることということがあったのかもしれない。

小栗忠順

それに加え、松平から出ているが、その正確な筋がわかっていない松平泰親を祖とする小栗忠順と言う人物に託す形で、幕末のさまざまな人々の活躍努力を象徴させて、国際的にはフランスの裏書きを受ける形でなんとか残そうとしたのではないかと考えられる。小栗は忠の通字を持つと言うことで、家康よりも秀忠系であるといえ、そしてそれゆえに『三河物語』よりも『家忠日記』の路線に近いのだと言える。全ての人の記憶を残すことができない以上、どこで何の話を飲むのか、と言う選択で、旧幕府の話はこれによって『家忠日記』に集約されたと言えるのかもしれない。そしてそれがなければ『三河物語』でもない、もしかしたら畿内の三好氏を中心としたような話で全く別の話として歴史が残ったのかもしれないし、そうしたら榎本武揚の構想のように東西二つの国に分かれていたと言う可能性もあったのかもしれない。いずれにしても、歴史というのはどこでどう転ぶのかわからない、生き物のようなものだと言えるのかもしれず、そのさまざまな可能性の足跡が残された幕末維新の話は、単純化ではなく、より各地の実相に近い形で丁寧に復元し、残してゆく必要があるのではないかと感じる。

阿部正弘の果たした役割とその後に残されたもの

とにかく、そのように複雑な、国内の歴史から世界情勢までを含んだ時代の海外との交渉の幕開けに関わった人物として、福山藩主阿部正弘という人物が歴史の中に名前を残したのだと言えそう。なお、すでに別のところで書いた通り、日米和親条約が本当に締結されていたものなのかについては疑義があり、それが後付けであったとしたら、これらの話自体、条約改正の話の中で、改正すべきもとの条約があったという前提があり、その前提を固めるために作られた一連の話であると言える。同時代において過去の改竄とその改竄された過去の条約の改正交渉を行うという離れ業を行ったというのは、歴史的に見ても、また他国の例を見てみても他に類を見ないことではないかと考えられる。ここを直視しないと、明治維新以降の近代化の流れは全く見えないし、ましてやそこに至るまでの歴史の継続性などというのは完全に失われてしまうだろう。

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