強制労働の歴史的理論的背景と自発的労働に基づく発展の可能性
強制労働を問題視せざるを得ない理論的背景はどこにあるのか。それは、憲法において勤労の義務が定められていることに起因しているのではないかと考えられる。労働が義務化されると、理屈としては完全雇用とならなければおかしいことになる。しかしながら、この完全雇用の概念は決して明確に定まっているわけではない。有斐閣の『経済辞典』から完全雇用を引いてみると、
となっており、摩擦的失業と自発的失業を除いた範囲が完全雇用であると定義されているのだと言える。このうち、自発的失業は本人の主観的意志、摩擦的失業は本人の意志に関わらず、社会が提供しうる職と本人の意志とがうまくマッチしていない主客の不一致に起因するのだと言える。
この定義自体は、非自発的失業を認めたケインズによってなされたものだ。
これは、ケインズを、市場に任せておけば普通に完全雇用が実現されると考えた古典派経済学と明確に区分するもので、それが大恐慌後の政府による経済介入を正当化することになった。この点においては後ほど再検討する。
それに対して憲法における勤労の義務は、憲法において勤労であると解釈するものを義務として国民に課していることになる。
ここで、「広辞苑」(第六版)を参照している広辞苑無料検索から言葉の定義を確認すると、
となっており、勤労とは、一定の時間仕えて仕事をすることであると解釈できそう。
一方で、法務省が運営する日本法令の翻訳を提供するウェブサイトである、日本法令外国語訳データベースシステム(Japanese Law Translation Database System)では、
となっており、workという言葉が用いられている。Cambridge International Dictionary of Englishによると、
となっており、仕えて、という解釈は含まれていない。仕えてならばserveとかemployedの様な言葉が使われそうだが、そうはなっていない。英語が元で勤労の訳語が当てられたのか、勤労からworkに訳して掲載しているのかはわからないが、いずれにしてもこれは誤訳に近いとすら言えそうだ。
いずれにしても、日本語の条文にある勤労の義務という言葉に従えば、これは何らかの人か組織に仕えてそこで一定時間拘束された上で仕事をする、ということが義務である、という解釈が一般的に可能である、という見方ができそう。
そうなると、摩擦的失業どころか自発的失業状態自体も義務を果たしていないという、経済学的にはほぼ実現不可能な義務を憲法が国民に対して課していることになる。
さらに、これは、日本語だけで解釈すれば、
のその意に反する苦役に服させられない、という部分と齟齬が生まれていることになる。とりわけ時間的拘束のイメージが一般的解釈で可能となると、それは意に反する苦役であるという解釈と、憲法解釈上で鋭く対立することになる。
さて、国際労働機関(ILO)フィラデルフィア宣言第3条において「完全雇用及び生活水準の向上:(a) full employment and the raising of standards of living;」をILOの責務のひとつに掲げている。
ここで、ILOに用いられているlabourという言葉の定義を同じく引用すると、
とあり、workよりも実際の体を動かす日本語的な語感では労働のイメージが強い言葉の様だ。
workはどちらかというと仕事というイメージか。
それはともかく、戦時中1944年5月10日に採択されたこのフィラデルフィア宣言によって完全雇用がILOの最重要責務となったのだと言える。このあたりは、第二次世界大戦とは一体なんだったのか、ということを考えるのにも大変興味深いことであると言えるが、アメリカのニューディール、ドイツのナチス、日本の産業報国会など、事実上ロシア革命とドイツ革命によって終わったと言える第一次世界大戦後の経済社会の見取り図で、世界恐慌もあって、政府による経済介入と大規模産業化というのが一つの解として目指される一方で、とりわけ日本やドイツ、イタリアといった三国同盟を組んだ国々においては、中小零細の事業者が多く、一般社会は大規模産業化とは別の、個別の技能を核としたネットワーク的な社会イメージを持っていた人々も多かったのではないかと想像できる。そしてそれは、同盟国対連合国という構図よりもむしろ、中小零細個人自立型の経済社会を志向する人々が、国家主導の大規模産業化志向の支配層に糾合される過程であったと見ることもできるのではないだろうか。そしてそれが国連最古の専門機関とも言えるILOによって国際的にも主導され、それゆえにILOは完全雇用という組織のもとでの労働が行き渡ることを最重要責務として掲げられたと言えるのではないか。
その構図の中で、workという言葉が勤労と同義であるとされ、それを国民の義務とする日本国憲法が定められたのだと考えることもできそう。その中で、理屈としてインフレなき完全雇用は実現不可能であるとき、憲法で勤労の義務が定められているということは、それ自体インフレ促進的な経済国家が定義されたと考えることもできそう。それによって高度経済成長、そしてさらにはバブル経済というインフレ志向の強い経済現象が正当化されてきたのだとも言えそう。バブル経済後にどれだけ金融緩和をしても経済が上向かない、というのは、この勤労の義務に基づくインフレ経済路線というのが完全に挫折したことを意味するのではないだろうか。
折しもこのバブル崩壊後、冷戦終結後に戦時中の強制労働の話が国際的な広がりを見せながら浮かび上がってきた。それは、共産主義体制が崩壊する中で、共産主義による労働のあり方は、強制労働だったのではないか、という思想上の見直し機運がおき、強制を行ったのは国なのか企業なのか、ということが、イデオロギー上の問題も含めて大きな問題となっていったのではないだろうか。その中で、事実関係は全く別問題として、国による強制連行という神話を作り出すことで、企業による労働を正当化し、共産主義に対する資本主義の優越を確保する、というのが、国内政治、そして国際的な議論の一つの方向性として定まったと言えるのかもしれない。それは、ILOを一つの礎石として成長してきた国連という組織の存立基盤にも関わることだとも言え、そしてそれゆえに、歴史的事実関係を無視してでも、将来に向けての(一方的な)理想像を論理的に推し進めることの方が重要であるとして、歴史的事実関係を一方的な見方で踏み固めながら、それを世界中の論理的空気の基盤にすることで、競争的に論理的社会を構築してゆくという、来るべきデジタル主導のコンピューター社会の基礎固めをしているのだとも言えそう。
競争的論理社会を避けるために
私は、その様な世界が真っ当であるとは到底思えないので、その方向を変えるために三つの提案をしたい。一つは世界的な概念的な再整理、二つ目に国内的な法的調整、三つ目に経済学的な実践だ。
雇用による経済の考え方の再考
世界的な概念再整理としては、組織、典型的には大企業を中心とした雇用による産業化路線というものを、その歴史的経緯そして行きすぎた優遇是正を含めて議論の対象とする必要があるのでは、ということだ。それには、共産主義革命から二度の世界大戦、とりわけ第二次世界大戦における国際的な全体主義傾向をどう解釈するのかといった歴史についての、世界各地の状況を革命とか戦争とかのヴェールを外してなるべくその土地土地の実際の現実的推移から考えられるそれぞれの地域独自の解釈から、それを全国、全世界で見るとどの様に見えるのか、といった全体像に至るまでの幅広いテーマで、寛容かつ活発に議論が行える様な環境を整えること。そして、ILOという雇用を中心として考える組織を、International Workers’ Organisationとでも改め、個別の職や技能を重視したものに改組してゆく必要がある。そしてその結果として産業、さらには企業というものの役割を再定義し、個人の存在をより大きくし、組織は個人の自由を増すための道具とするよう、改めて設定してゆく必要がある。それには、組織を生産設備のプールとしての役割に特化させ、それ以上の独自の意志のようなものを持たないようにする必要がある。組織が意志を持てば、それに属する(という表現も個人的には気になるが)個人はそれに制約され、ある意味で従属せざるを得なくなる。組織が個人を従属させるなどということは、自由の観点からはあってはならないことだろう。
憲法にまつわる三つの問題
それがとりわけひどく現れていると考えられるのが、すでに述べた通り、最高法規の憲法によって国民に勤労を義務付けている日本であると言えるのではないか。これは、幾つもの問題点を浮かび上がらせる。まずは、憲法ができたときに、その制定過程に国民はほとんど関与できなかったのにも関わらず、国民に対する義務の条項が目立つ、という、そもそものこの憲法の性質とその制定過程の問題点がある。これについては、今からでも遅くはないので、国民の間できちんと議論を行い、自分(たち)にとって理想の憲法とはどのようなものか、ということを主体的に議論し、その意志を示してゆく必要があるだろう。ついで、この憲法を改正しようとしても、国会の権限が強すぎて、国民投票にかかるまでのハードルが高すぎるということがある。これは、最高法規の立法権について主権者よりも立法府の権利を優越させているということになり、それでは原理的に国民の義務の条項を撤廃させるのは非常に難しいことを意味する。立法府は権力者であり、その権力者を縛るのではなく、国民を縛る法をわざわざ権力者側が易々と手放そうはずがない。国民投票のプロセスは、もっと主権者たる国民の側に寄せて定められるべきだろう。そして、仮に国民投票にかかったとしても、その案は立法府によって定められるものとなり、国民の側でそれをまとまった形で支持できる様になるかはまた大きな問題となる。つまり、国民投票にかかっても、それで合意形成がなされるかというとそれもなかなか不透明であると言わざるを得ないという状況なのだと言える。これには、国民投票の仕組み自体の抜本的な改革が必要になるかもしれない。スポット的な賛否ではなく、一定の期間の間に、できれば複数の案を提示して、それで多数の支持を集めたもので改正を行う、といったような、より柔軟で主権者の選択肢をなるべく広げる様な形での国民投票が求められるのではないだろうか。これが国内的な法的調整についての私の考え方だ。
等身大の古典派経済学的復権
最後に経済学的な実践について考えてみたい。上で古典派経済学とケインズについて少し触れたが、それをもう少し掘り下げてみたい。古典派の段階では、まだ金融市場がそれほど発達していなかったので、多少の貯蓄を除けば、市中に出回る貨幣は基本的に市中を流通することになり、それによって自然に仕事も生まれ、全体としてうまく回るだろう、というのが楽観的な古典派経済学者の立場であったのではないかと考えられる。それに対してケインズは美人投票の例えをするなど、株式市場をはじめとした金融市場を大きく捉えていた。金融市場が大きくなると、貨幣は市中を回らず、より利益率の高いものを探して金融市場へ向かうことになる。そうなると、市中で雇用や仕事を増やすはずの貨幣流通が細ってしまい、それによって本来は職になってもおかしくないような需要が消え去ってしまい、それによって非自発的失業が多く起きるようになるのではないかと考えられる。つまり、古典派の見方が間違っていたというよりも、ケインズの時代になると、金融市場が無視できないほどに大きくなり、それが失業問題に深く影響していたのではないかということが考えられる。この弊害をなくすためには、それぞれの地域レベルでの地域内貨幣流通が潤沢に確保されるということが必要になる。現状では市中に潤沢に貨幣が供給されても、それは結局金融市場に吸い上げられてしまい、結局実体経済自体が窒息状態に陥ってしまっているという状況なのではないだろうか。ケインズは、国民国家レベルでのマクロを想定し、そこでの財・貨幣需給が最適化されるということを念頭にケインズ経済学を打ち立てたのだと言えそうだが、国民国家という単位は本当に需給を総計して最適マッチングさせるのに最も向いたものだったのだろうか?私は、個人的には、食料とエネルギーを自給できるような、そのなるべく狭い範囲で需給マッチングを行うのが良いのではないかと考えている。マクロ需給を高い管制塔から観察しようとしても、どうしても解像度が落ちて細かな需給までは掬い上げられなくなる。実際のところ、自発的失業と非自発的失業の間を埋めているのは、そのような、地域によって個別に異なる細かい需要である可能性が高く、中央管制によってたとえば利益率が低すぎるなどとしてそれを塗りつぶしてしまうと、その皺寄せは失業率の上昇として現れてくる可能性が高いのではないだろうか。だから私はなるべく管制塔を低く、できることならば管制塔などなしで皆が自分のマクロ観を十二分に発揮することで具体的需要をどんどん作り出して貨幣流通を起こしてゆく、という行動が地域レベルで継続的に発生し続けるという状況が一番望ましい金融環境を作り出すのではないかと考えている。具体的生活圏に近いそれぞれの地域で、そこが社会として抱える問題は何で、それはどのようにビジネスで解決して行けるのか、ということを、その地域に住んでいる人々が自分ごととして考えてゆくことで、ケインズの作り出した完全雇用の罠から抜け出すことができるのではないだろうか。経済学は、マクロに視点を移すことで急激に抽象度が上がり、そしてそれが数学的な定量的手法を用いやすくした大きな原因なのではないかと考えられるが、経済は決して数字などではなく、個々人の需給のふれあい、すなわち相手が何を求めているのか、という感性をより豊かにすることで流れが良くなるものなのだろう。現状結局その相手の需要を察しようとする行動すらも、先を読まれて駆け引き、そして競争に埋もれてゆくということになっていると考えられ、その行動を結局金とか権力とか異性とかいったわかりやすいもので解釈しようとするから需要自体がどんどん貧しくなり、細ってゆくのだと考えられる。これは、地域レベルで、文脈をわかれよといって暗黙の力で押し付けるようなことをするのではなく、それぞれの解釈を具体的に表現することでそこから需要が生まれ、地域独自の購買文化が生まれてゆくという好循環を実現することで、共産党等左派のアイディアを表に出させ、一方で右派の愛国熱狂的な熱意をそのアイディア実現のためにぶつけて、和解と革新が同時進行で起きるということになると、失業問題などは意識もしないところへ飛んでいってしまうのではないだろうか。
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