目的合理性のボトルネックとなっている貨幣

目的を合理的に追求するためには、その間にあるステップはなるべく少なく、そしてあっても障害とならないものが望ましい。現状、目的を合理的に追求しようとする時に一番のネックとなっているのはお金、つまり貨幣ではないだろうか。何事にも先立つものが必要だ、という認識は広く行き渡っているようで、特にビジネスを始めようと考えるのならば、まずどこからお金を引っ張ってくるのか、ということが非常に重要となる。しかしながら、そんな資金調達に頭を悩ませることは、果たして目的合理性に適ったことなのだろうか。

資金調達の目的合理性?

目的合理性、つまりやりたいことを自分の理屈に合ったやり方でやる、という時に、お金を集めるという行動はどこまで自分の理屈の中で納得できるのだろうか。誰かから出資なり融資なりを受ければ、いずれにしてもその人の意見は幾分かは聞かざるを得ず、納得のできることならともかく、お金のために合点のいかないことも飲まざるを得なくなったりするのならば、それは明らかに目的合理性からは外れる。とりわけ補助金などと組み合わせた資金調達となると、まず補助金の目的ありきでそれに合わせて自分の目的を調整するということになり、資金調達の時には自分の目的よりも補助金の目的の方が強く問われることとなって、自分の目的などはおまけのようになり、ほとんど資金調達が目的化することになる。そうなってくると、目的合理性社会というもの自体、補助金を決めたところなど、政府などの目的が最優先となり、個々人の目的は脇に追いやられ、社会の目的合理性のために個々人が部品となって働くことを強いられることになる。そんな社会は明らかに本末転倒であり、奴隷になるための目的合理性であるとすら言えそうだ。

客観指標として便利な貨幣

そのようなおかしな社会にならないように、一体どうしたら良いだろうか。問題の原因は、社会の合理性を客観的に評価するのに、客観指標となりうるものとしての貨幣というものがあまりに便利である、ということにありそうだ。そして、客観指標として使いやすいがゆえに、本来ならば目的ではなく、目的達成への合理性を計測するための指標であるはずが、それが目的化してしまい、特に管理をする側、すなわち政府にとっては、政策合理性の判断基準として追求する目的としてはうってつけのものになってしまっているのだと言えそう。

目的管理をする組織の目的合理性

ここで、目的を管理されるというのは、管理される側にとってはその時点ですでに合理的であるとは言い難くなっているのだと言える。目的は、自分の価値基準に従って合理的に追求されることで初めて目的合理性が達成されるのであり、他者の基準ありきで、それに合わせて行動するのは、本人にとっては全く目的合理的であるとは言えない。しかしながら、典型的には会社というような組織においては、目的はポストとなりがちであり、ポストを得るための目的合理性となると、上司に対して成果を見せ、自分を強く印象付ける、ということになりがちだ。つまり、組織における目的合理性は上司からの評価を得ること、という相対的目的の追求となりがちであるということが言える。そうなると、目的は自己基準ではなく、上司という他者の基準となりがちで、それに対して自分の目的を訴えようとすれば、客観指標である貨幣を用いざるを得なくなる。ゲゼルシャフトであるはずの組織が、組織の目的のために自己目的を犠牲にする、個にとっては全く目的合理的ではないものとなり、そして組織の目的合理性のための部品となることを求められることになる。

個別目的設定の難しさ

では一体個人にとっての目的を、いかにして一般化せずに客観化できるだろうか。それには、個別目的でありかつ相対化できるものを設定する必要がありそうだ。例えば、家を建てたいという個別目的は、確かに個別ではあるが、絶対的なものであり、そうなると建ててやるから金を持ってこい、という話になってしまう。それが、貨幣が客観指標として用いやすい一番の原因であると言えそう。それに対して、時間の有効利用というのはそれぞれ感覚が異なるので、相対的な目的であると言えるが、感覚が異なるのにも関わらず個別目的として一般化されると、それぞれがそれは時間の無駄だ、と言い出して整理がつかなくなり、結局上司なりリーダーなりの時間感覚が反映される形で一般的な時間感覚が形成されることになり、その集団のペースやリズムで動くことを強いられることになる。

相対的目的としての完全情報

そこで、一般化しがたい相対的目的として、完全情報というものがあるのではないかと考えられる。完全情報の完全という感覚は一般化しがたく、ある人にとっての完全は別の人にとっては全く完全ではない、ということは十分にありうる。現状、それを一般化しようとする作用が強すぎて、わからないことに対して、そんなことも知らないの、というようなメタな圧力がかかり、わかれよ、という空気が形成される元になっているのだと言えそう。しかしながら、情報というのは、一人一人の目的に応じてその完全というものが異なってくるものであり、だからそれぞれが自分の目的を示し、そのわからない部分を埋めてゆくという個別目的の追求を行うことで、個別かつ相対的、相補的な目的合理性追求が行われるようになるのではないだろうか。つまり、お互い自分の不完全部分を、情報交換を通じて補完し合うことで、それぞれの目的が合理的に追求されることになると言えるのではないか、ということだ。

個別目的合理性を阻害する貨幣

ここに貨幣が絡むと、教えてやるから金よこせ、というようなことになりがちで、貨幣が目的合理性を阻害するメカニズムが顕在化することになる。貨幣の価値が下がれば、それを積極的に使って情報を得ることで、情報交換が加速され、完全情報に近づくということになりそうだが、貨幣を集めることに意識が集中すると、情報交換が阻害されることになる。ここに金利の非合理性ということが現れてくるのだと言えそう。

ボトルネック解決のために

情報の完全性を客観的な基準とするためには、それぞれが今やりたいことを提示し、そこに至るまでに何が不足しているのかを明らかにしてそのボトルネック解決を(仮に客観化が望ましいのならば)何らかの形で数値化するということになりそうだ。貨幣の価値が下がるのならば、不足している部分に値をつけてそれが解決した部分を数値化してゆくということが考えられそうだが、現状の経済はそれを近似的に目指しているとも言えそうなので、具体的にはもっと現実との絡みを見ながら決めてゆく必要がありそう。その点からも、情報とは何なのか、ということはさらに問われる必要があるのだろう。

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