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【Lonely Wikipedia】限界効用理論

経済学の基本をなす限界効用理論についてどうにもスッキリしないので、ちょっと調べてみた。

限界効用理論(げんかいこうようりろん、英: marginal utility theory)とは、限界効用概念を軸にして形成された経済学上の理論。1870年代にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、カール・メンガー、レオン・ワルラスによって学問体系として樹立した。従来の労働価値説に基づく可算的な商品価値を前提とした経済学から、功利主義に基づく序数的(相対的)な価値・効用に拡張することで、ミクロ経済学や金融論に革命をもたらした。
Marginalism is a theory of economics that attempts to explain the discrepancy in the value of goods and services by reference to their secondary, or marginal, utility. It states that the reason why the price of diamonds is higher than that of water, for example, owes to the greater additional satisfaction of the diamonds over the water. Thus, while the water has greater total utility, the diamond has greater marginal utility.
Although the central concept of marginalism is that of marginal utility, marginalists, following the lead of Alfred Marshall, drew upon the idea of marginal physical productivity in explanation of cost. The neoclassical tradition that emerged from British marginalism abandoned the concept of utility and gave marginal rates of substitution a more fundamental role in analysis. Marginalism is an integral part of mainstream economic theory.

限界効用理論自体については、ここで改めて説明するよりも、Wikipediaを読んだり、さらに原典に進んだりしてみていただきたいが、個人的に一つ疑問に思うのが、なぜ限界効用は逓減するはずなのに、貨幣の限界効用は逓減しないのか、ということだ。むしろ、限界効用逓減という状態を作り出すために貨幣に金利が付与されているのではないかとも疑いたくなってしまう。理論ありきで制度が設計されているとしたら、これほど不幸なことはない。

さて、ここで注目したいのは、日本語版と英語版では出てくる名前が違っているということだ。日本語版では1870年代のジェヴォンズ、メンガー、ワルラスの名前が上がっているが、英語版ではそれよりも遅れるマーシャルの名前になっている。これは一体どういうことなのか。
まず、上がっている名前をそれぞれ見てみたい。内容はやはり英語版の方が圧倒的に充実しているので、そちらから。

イギリス人のジェヴォンズは、経済学者というよりも、論理学者的な業績が目立つ。その論理学においては、結論はどんな前提のセットからでも機械的に導かれる、というもので、いわばコピー理論とでも言えるものだった。
経済学的には、オーストラリアでの造幣局金属検査官を経たためか、金の増産による金価格の下落についての論文が最初のものだった。その内容は、金の増産による金価格の下落が労働力を失うことになる、という内容だった。そして次の石炭問題についての論文では、ジェヴォンズのパラドックスという、資源価格の上昇がその資源の有効活用につながる、という考えを提示した。
時期的に言えば、これは1860年台前半で、アメリカで南北戦争、65年にはフランスを中心にラテン通貨同盟が結成されるという時期で、アメリカでは軍事費調達のため不換紙幣が乱発され、ラテン通貨同盟は金銀価格を固定した金銀複本位制であり、どちらも金の需要を抑制的にするものだった。つまり、ジェヴォンズは金価格の安定、ひいては金本位制の導入という意図を持って経済問題を論じていたことになりそう。
そして71年の『政治経済学理論』において、効用の数学による理論化を行った。この手法自体は62年から主張していたものだという。もっとも、その理論自体は1738年にはすでにスイスの数学者ダニエル・ベルヌーイによって提示されており、取り立てて目新しいものではなく、ジェヴォンズはそれを数学的に理論化可能であると主張したに過ぎない。しかし、それが経済学の数学的精緻化につながったことは否定できない。

オーストリアのカール・メンガーはより純粋な経済学者であったと言える。60年代にジャーナリストとして市場に触れたメンガーは、67年に政治経済学の勉強を始め、71年に『経済学原理』を発表した。その中で、彼は古典派の労働価値説を批判し、主観的価値理論を提示した。これは、市場参加者のそれぞれが主観的な価値によって市場取引を行うというもので、労働者側の価値だけでなく、消費者側の価値観も価格に反映されるという、需給の曲線が動くメカニズムを明らかにしたと言える。そして、この理論によって、市場参加者のどちらも交換によって利益を得る、ということが明らかにされた。ただ、メンガー自身はその主観的価値が数学的に解析可能だとは考えてはおらず、その点でジェヴォンズとは決定的に異なっていた。

フランス人のレオン・ワルラスは、経済学者ではあったが、限界効用主義にはあまり馴染みがなく、むしろ均衡理論の構築に熱心であった。実際、均衡理論と限界効用主義とを統合するのはなかなか大変で、少なくともワルラスがそれに成功したようには見えない。
むしろ彼は一般均衡の理論化を行った。すなわち、超過需要は必ずゼロになるという推定から、ある市場で均衡が達成されれば、全ての市場で均衡となる、というものだ。日本語版では、彼がジャン=バティスト・セイの孫であるレオン・セイと関わりがあったとされるが、彼の考えはまさにセイの法則に基づかないとなりたたないものであり、とてもではないが理論などと呼べたものではない。これは、前の二人よりも少し遅れて1874/1877年に発表された。

確かにこの三つの理論が合わされば、限界効用と一般均衡がミックスされたものが成立しそうだが、それではいったいどのように均衡の乱れが起こるのか。その辺りにメンガーの主観的価値を数学的には解析できない、との主張の意味があるのだと言えるが、そのことは全く顧みられることなく、ワルラスの現実離れした一般均衡理論が後の新古典派理論の基本的な考え方になってゆく。

さて、前二人の著作が発表された1871年と言えば普仏戦争のあった年であり、まさにその戦争の結果プロイセンで金本位制が導入されることになった。そしてその導入に際して、オーストリアの株式市場の崩壊をきっかけに起こった1873年の恐慌があった。それは、理論的に言えば、メンガーの主観的価値によって、価値体系が主観に基づくものとなり、その必然的帰結としてのちにケインズが美人投票であると看破する価値のバンドワゴンのようなものが起き、市場が崩壊したのだと言える。そして、そうなると、何らかの絶対基準が求められるようになり、金本位制が受け入れられる決定的な要因となったのだと言える。これは、金本位制を正当化するために、意図的にメンガーとジェヴォンズの論文がピックアップされ、それと後のワルラスを合わせて経済学的には限界革命が起こったのだとして、その真の意図を隠したように見える。

理論的には、部分均衡を基本にした後のマーシャルのほうがはるかに洗練されており、そもそも限界革命なるものが本当にあったのか、ということ自体疑わしいのだが、仮にあったとしたら、それはマーシャルに帰せられるべきものであろう。

限界革命とは、後の新古典派が一般均衡を軸に据えるために作り出したある種の幻想であるとも言えそう。それは、冒頭で述べたとおり、金利の存在を正当化するためのものだとも言えるし、また上に述べたとおり金本位制導入につなげるためのものだとも言える。

一般均衡については、のちにケインズがこれを貨幣的に分析し、マネーサプライの範囲によって財市場の総需要と総供給が均衡するという形に置き換えることで、ようやく一般均衡と呼べる形になったのだと言える。

そもそも論になるが、限界効用逓減の法則などという非現実的な話が経済学の基本になっていること自体がおかしいのだろう。同じ商品を繰り返し買うなどという想定を、どんな現実を見たら想定できるのか。そのようなものはまさに貨幣以外には存在せず、それを理論化するのなら貨幣へのマイナス金利しかあり得ない。しかしながら、現実には貨幣には正の金利がつくわけで、つまり限界効用逓減の法則が作用する財などはこの世には存在しないのだ。まあ、近頃流行りのサブスクリプションなどのサービス業に関してはそれが当てはまるものがあるのかもしれないが、それは価格戦略によって価値を固定してしまっている。つまり、限界効用逓減の法則が作用すると、経済主体は合理的にそれを回避する、というのが現実世界なのだ。
実際の理論的応用は、ヒックスの無差別曲線によって適用可能になったわけだが、複数の財によって得られる効用曲線というのは、最適消費計画を一括で行うという想定になりそうで、それもまた現実とは反している。やはり、メンガーの言うとおり、個々人によって全く異なる効用のあり方を数学的に定義するのは無理があるのではないだろうか。
限界効用主義というのは、理論家がこうしたらモデル化しやすい、という理屈を実現するために用いているに過ぎず、人をそのモデル実現のために合理的に動かそうとしてもうまくいく要素が全く見当たらない。近年のマクロ経済政策の機能不全は、理論家の考える合理性と現実社会の合理性がかけ離れていることを示しているのではないのだろうか。
限界効用主義は、その成立背景などをもう一度見直し、有効性が再検討されるべきなのだろう。

政治的に作り出された学問史のようなものには十分注意する必要がありそう。

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