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【日米開戦80年】「覚悟」の秋の実像

開戦80年ということで、少しずつ記事も出始めているようだ。そんな中で朝日新聞が12月5日付1面2面のプレミアムAの特集で、『昭和天皇開戦「覚悟」の秋』との見出しを掲げて侍従長日記の内容を紹介している。侍従長という最側近の日記ということで、非常に史料的価値の高いものであるが、解釈の仕方、あるいは情報の取り上げ方一つでここまで印象を作ってしまうのだ、という好例としてこの記事の内容を見てみたい。

百武三郎日記

記事によると、

太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10〜11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、侍従長だった百武三郎(1872~1963)の日記から見つかった。

朝日新聞2021年(令和3年)12月5日1面より

という。この記述の通り”開戦について「覚悟」した様子”だと解釈したのは、朝日新聞 編集委員・北野隆一氏であり、その解釈の妥当性が問われるのであろう。

まず取り上げられているのが、41年10月13日の日記である。まず、辛巳旧8月23日と旧暦を付してまで書かれているのに、わざわざ西暦に翻訳したものを主として書くというところにその立ち位置が明白に現れている。尤も元号を付していないのは元書類からなので、干支だけではすぐには年がわからないということもあるのだろうが。戦前の宮中での正式書類は元号や神武紀元をつけずに干支だけを付していたのだろうか。

松平宮内大臣発言

それはさておき、その内容は、

昭和天皇に拝謁(面会)した松平恒雄宮内大臣から「切迫した時期に対し、すでに覚悟あらせられるようなご様子だ」と聞いたと記載。

朝日新聞2021年(令和3年)12月5日1面より

とある。2面に載っているその引用は、

宮相本日拝謁(中略)切迫の時期に対しすでに覚悟あらせらるゝが如き御様子に拝せられると先頃来木戸内府も時々御先行をお引き止め申上ぐる旨語れることあり 先頃来案外に明朗の龍顔を拝し稍不思議に思ふ

朝日新聞2021年(令和3年)12月5日2面より

となっている。問題は、この「覚悟」云々を誰が言ったのか、ということで、そこでこの(中略)部分が問題となる。紙面にも写真が載っているが、正確に読み取れるわけではないので、朝日新聞のウェブサイトからのプリントスクリーンを付してそれをもとに書くことにする。

朝日新聞DIGITAL

それによると、宮内大臣は拝謁をして奏上を行ったのであり、日記中ではそれを事態が切迫していることの一例として挙げたのではないか、と私は読み解く。だから、その後の「已に覚悟あらせらるゝが如き御様子に拝せられる」と言ったのは、松平宮内大臣ではなく、むしろその後の木戸内府が先行をお引き止め申し上げたと述べた時に出てきた言葉ではないかと考えられる。もしそうだとするのならば、この(中略)は、編集上の意図で、主語をわかりにくくするためにわざわざ省いたのでは、と考えざるを得なくなる。中略ではなく、前を全部省いてしまえば宮相本日拝謁という言葉も出てこないわけであり、そうすれば主語が木戸内府であることは明らかだからだ。これを悪意ある編集と言わざるしてなんと言おうか。

そしてそれは、「稍不思議に思ふ」ことの対象が一体誰に当たるのか、ということにも関わってくる。つまり、百武侍従長が不信感を示した対象が木戸内府であるという日記の元々の文意に対し、宮相が覚悟の様子を見てとり、木戸内府はその覚悟を押しとどめた役割であるという印象操作をすることで、次に出てくる11月20日の内容についての解釈を補助しようとしたのでは、と考えられるのだ。

木戸内府発言

では、その11月20日の内容について見てみたい。まずは1面の内容から。

百武は11月20日にも、木戸が「陛下の決意は行き過ぎのように見える」と語ったと記し、「(東郷茂徳)外相の前ではあくまで平和の道を尽くすべきだと印象付ける発言をするようお願いした。」との木戸の発言を書き取っている。

朝日新聞2021年(令和3年)12月5日1面より

となっている。一方2面に取り上げられた翻刻では

内府(木戸)曰く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ

朝日新聞2021年(令和3年)12月5日2面より

とあり、これを

百武は、天皇が開戦に傾く様子を木戸が懸念したとみられる「陛下の決意が行き過ぎのように見える」との発言を記した。

朝日新聞2021年(令和3年)12月5日2面より

としているが、私はむしろ逆なのだろうと感じる。これは、11月20日という日付に何があったのか、ということをみないと見えてこないことだと思われる。

11月20日へ至る経緯

11月20日は、日米交渉の日本側の最後の譲歩であった乙案がアメリカ側に最終的に提示された日であった。記事中にも書かれている通り、近衞内閣が10月16日に総辞職した。そして非戦論をまとめ切る可能性が一番高かった東久邇宮稔彦王を陸相だった東條が推薦したのに対し、木戸幸一が強硬に反対して東条内閣となった。その理由は皇族内閣での戦争突入はまずい、ということであったが、それならば木戸は戦争にならないように最善を尽くすべき立場にあったということがまずある。そこで、誰がこの非常時の外務大臣に東郷茂徳という、駐独大使、駐ソ大使を続けて罷免され、外務省主流派から外れていた人物を外務大臣として引き上げたのか、ということを考える必要が出てくる。陸軍との関係はよくなかったので東條が自ら引き上げた可能性はまずない。その東條を総理に押したのは木戸その人であり、だとしたら外務大臣に東郷茂徳を入れさせたのは木戸幸一であると考えるのが一番ありそう。東條内閣成立の経緯からも、戦争を避けるための外務大臣ということで、天皇に対しても説明していたであろう。一方で総理となった東條は、天皇の命令は絶対として「東條変節」と揶揄されるような交渉推進路線に舵を切った。

11月1日連絡会議

外相東郷茂徳が11月29日の連絡会議で陸軍から撤兵期限の譲歩を引き出したことで、甲案を対米条件とすることがきまった。しかしその翌日には海軍大臣の嶋田繁太郎が戦争の決意を表明し、11月1日の連絡会議でその意思表示をおこない、それを受けて外交交渉の打ち切り期限が12月1日の午前0時と定まった。連絡会議には法的な効力は何もなく、近衛文麿の作り出した権力の中空だと言えるものだった。そうだとしても、内閣によって作られ、政府も参加している大本営と政府の連絡会議で打ち切り期限が定まっている以上、天皇の決意がどうあれ、それを覆すのはなかなか大変な状況であったのだ。そしてその議題が外交交渉に移ると、2日前に合意されたばかりの甲案に対して、はるかに軍部に譲歩を強いる乙案が東郷外相によって提示された。ただし、海軍が交渉に締め切りを設けた以上、これくらいの譲歩条件がなければ交渉は成立しない、という考えもあったと思われ、東郷案というよりも外務省案であったと考えるのが自然であろう。これらの議案によって激論が交わされた連絡会議の結果、本来的には交渉の決裂が戦争に至るという必要はどこにもなかったのだが、「武力発動の時期を12月初頭とし作戦準備を行うこと」「甲案、乙案による対米交渉を行うこと」「12月1日午前0時までに交渉が成立すれば武力発動を中止すること」を柱とした「帝国国策遂行要領」が採択され、11月5日の御前会議で正式に決定されたのだった。これによって、天皇の一存によって開戦の是非を決めるという余地はほとんどなくなっており、天皇が開戦を避けるためには対米交渉を成功させるしかなくなっていた。

新情報の中身

その後、その方針に基づいて対米交渉が行われたが、それはなかなかうまくいかないまま交渉期限が近づくということもあり、11月18日に野村駐米大使が南部仏印からの撤兵によってアメリカの凍結令撤去を導きだすという案を出した。これに対してハルは好意的な反応を示し、それが日記の中に出てくる天皇にもたらした新情報であると考えられる。

この野村大使の行動は東郷外相に叱責されているということから、外務大臣経由ではなかったことがわかる。だとすると、これは、もしかしたら、開戦をなんとしても避けたかった天皇周辺による独自外交であったかもしれない。だから、この日記に書かれているのは、それに対して木戸がその決意が行き過ぎである、ということを言った、ということなのではないか。

11月20日付日記

その日記を見てみると、

朝日新聞DIGITAL

一旦

内府曰く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ

というところで内府の発言としての文章が切れ、

依て近着の米情報(「ル」大統領は妥結を熱望すと)を上覧に供し飽く迄平和の途を考ず(?)べき様(?) 外相に御印象附け遊ばされる様お願いしたる由

という部分は侍従長自らが取った行動について説明しているのではないかと考えられる。つまり、木戸ー東郷による天皇名義での開戦路線に対して、天皇と侍従長などが独自外交を含めた手段をとり、それが好転したことを侍従長が天皇に報告して励ましたのではないか、ということだ。結局それに対して、この日東郷からアメリカに対して公式に甲案の提示がなされ、26日にそれまでの交渉経緯を無視した様な強硬なハルノートが出されて交渉決裂に至ったことになる。木戸ー東郷が開戦を画策していたとしたら、甲案を正式提示することでアメリカに対してさらなる妥協の余地があるのでは、という望みを持たせ、ハルノートへの道を開いたとも考えられる。

これを持って天皇の覚悟の証拠としてその戦争責任につなげようとする論理展開は、そのまま木戸ー東郷の開戦路線の延長にあるといえ、前段での木戸擁護の解釈捻じ曲げと言い、それは意識しておこなっている可能性が非常に高いのではないかと疑わざるを得ない。戦後80年の年にそれを行うことで、一体誰にどの様なメリットが生じるのか、というのは注意深くみてゆく必要があるのだろう。

令和3年(辛丑)12月9日追記
とは書いてみたものの、やはり天皇の独自外交であったといえる様な根拠は何一つ見つからない。まだまだ何も見えていない様だが、この記事がおかしいということくらいはわかる、ということで一応このまま残しておくことにする。

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