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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

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広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、… もっと読む
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#吉田神道

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(30)

版籍奉還と吉田藩さて、このシリーズの初めのあたりで、『棚守房顕覚書』の中身を紹介し、その中で毛利氏と吉田との関わりについて見てきたが、その話の延長線上に、毛利氏の長州藩が主体となった明治維新というものを位置付けられるのではないだろうか。そこで、主語がなんとも言えないので少しわかりにくいが、吉田をどのように用いて明治維新というものを進めてきたのかを考えて見たい。 広島藩の動き まず、吉田というのが、幕末に広島藩支藩の吉田藩の入封によって名前が浮かび上がるということはすでに述

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(20)

吉田の起源を追って ー 信仰心の広がりの行方前回吉田と京都祇園社の関わりについてみて、津和野までは戻れなかったが、今回はそこを探ってみたい。 益田氏と吉見氏 津和野の北に位置する益田を拠点としていた益田氏が兼の字を通字としていたとされる。益田氏には、いくつかの系図が残されており、かなりの長期間にわたって兼の字を使い続けているが、支流がいくつかあったようで、益田氏自体が本家だったかどうかは定かではない。そして吉見氏とは、婚姻関係を結んだり、敵対したりして、単なる対立構図では

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(12)

厳島から見る毛利元就2引き続き、『棚守房顕覚書』より、陶隆房の謀反のところから毛利との関わりを追ってみたい。 どうも、祇園社から吉田を”當社”に寄進した毛利の力を用いて、大内が討たれたのを機に勢力を拡大しよう、という意図の元に話を進めているように感じられる。 大内を討った陶が元々仲のよくなかった吉見征伐に出かけ、毛利に助力の催促をしたが、そうはならずに己斐、草津、櫻尾の城をとって神領ヘ向かった、ということか。ここで宮島と當島が別に書かれていることには注目したい。  そし