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献言の難しさを体現した古代の天才貴公子の話

『キングダム』でただいま脚光を浴びている秦の始皇帝(秦王 政)に「ああ、この書の作者と会って交際することができたら死んでも悔いはない」と言わしめた人物がいます。

その書の名は『韓非子』、作者は韓非です。

韓非は韓という国の公子で「生まれつき吃音があり、口で説明するのは上手くなかったが、その代わり執筆の才が巧みだった。李斯とともに荀子に師事したが、その時点で李斯は、自分は韓非には敵わないと思っていた」と伝えられています。

この李斯という人物は、後に秦の始皇帝に仕え宰相となる人物です。その人をして「敵わない」と言わしめるほど、韓非の優秀さは早くから現れていたようです。

李斯が冒頭に引いた秦の始皇帝の嘆息を聞いて「あなたが感銘を受けた『韓非子』の作者は韓の公子、韓非ですよ」と始皇帝に進言したところ、秦は韓非を手に入れるため韓を攻めたと言われます。よほど韓非の書に心動かされたのでしょう。

では、始皇帝がそこまで感銘を受けた『韓非子』の作者・韓非はどのような一生を送ったのでしょうか。

『史記』によると「韓非は清廉で真っ直ぐな人材が心根の曲がった臣下に邪魔されて登用されないことを悲しみ、過去の君主たちによる政治の得失の変遷を俯瞰した。その結果、十数万字あまりの書を著した」と記されています。

特に『史記』では、主君に自分の意見を「説」き受け入れられることの「難」しさについて書かれた「説難(ぜいなん)篇」を引用して韓非子の思想を記しています。

以下に「説難」の引用部分を要約します。

「自分の意見を説き相手に受け入れさせる難しさとは己の知が説得に足りているか否かや饒舌か否かという次元のことではない。すべて説得の難しさというのは相手の心を察し、自分の意見を相手の心に当て相手を動かせるかにかかっている。

相手が節義や仁義などを重んじている場合、実利を優先させることを主張すれば低節でいやしい人間性だと思われ、遠ざけられるだろう。

相手が実利を優先する考えの持ち主であるなら、そこへ節義や仁義を重んじる主張をしても、心にもない綺麗ごとをばかりで現実を見ていないとされ、用いられないだろう。

相手が本心では実利を重視するのに建前は節義や仁義などを重んじている相手の場合、仁義を説けば形の上では採用されるが実質的には斥けられ、かといって実益重視の主張をしたら、裏ではその意見は採用されるが表向きは用いられず遠ざけられるだろう。

こういうことを、意見する前にあらかじめ知っておかなくてはならない」

「意見を主張する時は、相手が誇っているところを強調し、羞恥心や引け目を感じている部分には全く触れないように気を付けるべきである。相手が自分の考えた策は優れていると思っているなら、不足や誤りを指摘してメンツを潰さないこと。

自分の決断力に自身がある相手に、反論して怒らせてはいけない。自分の力が立派だと思っている相手の粗探しをしてやりこめてはいけない。」

「本当に君主のために役立とうと思う者は、まずは君主に逆らって機嫌を損ねないようしに、覚えがめでたくなり親密度も上がり意見が退けられなくなってからやっと自分の主義主張を、述べる。そうすれば主君もうたがったりせず論争しても罰せられなくなる。

このように意見を述べる臣下と主君が相互に助け合うようになることが成功した説得と言える」


『韓非子』はこの調子で、いかに自説を受け入れさせることが難しいかを繰り返し様々な角度から延々と主張し、以下のようなたとえ話も持ち出して意見を主君にます。

「その昔、彌子瑕(びしか)という、衛の君主の寵愛を受ける者があった。衛の法では許可なく君主の車に乗ると足きりの刑に処されると定められていた。

ある時、彌子の母親が病気になった。彌子は君命だと嘘をついて君主の車に乗って母親のもとに駆けつけた。衛の君主は之を聞いて彌子を賢いと褒めて言った。『親孝行だ。病の母親のために足きりの刑になると分かっていてそのような行動をするとは』。

別のある日、彌子と衛君は果樹園を散策していた。彌子が桃を食べたところ大変おいしいと思ったので全部食べずにその桃を王に献上した。王は『私を本当に愛してくれているのだな。自分で全て食べ尽くさず、私のことを思ってくれるとは』。

しかし月日が流れ、彌子の容貌が衰え、君の寵愛も薄れてしまった。ある時、彌子は衛君から処罰をされることとなった。君主は『こやつは私の命令だと偽って私の車に乗ったことがあり、君主たる私に自分の食べかけの桃の食べさせたことがある』と言った。

彌子のしたことは何も変わっていないのに、はじめは褒められ、あとになって処罰を受ける。これは衛の君主の彌子への愛憎に変化があったからだ。

主君に可愛がられている時は、意見は主君の心に適って親しさも増すが、疎んじられていると罰しようという主君の意向に当たってしまい、より疎んじられることになる。

こういう訳だから、意見を主張する者は主君の心の愛憎をよく推察してから自説を述べなければならない。」

言われてみればお説ご最もという感じです。人が情で動くのは今も昔も変わりません。韓非子の見解は今でも会社組織の中で上司に意見を述べるサラリーマンの参考になるでしょう。

ただ、このように自分の意見を君主に受け入れられる難しさを仔細に述べた韓非子ですが、本人はとても皮肉な最後を迎えます。

冒頭で「秦の始皇帝が韓非子を手に入れるために韓を攻めた」と書きました。その結果、どうなったか。

韓非子は韓の使者として、秦に使わされました。始皇帝は喜びますが、韓非の優秀さを良く知っていた李斯はやがて彼が始皇帝に重用され、自分がその割を食うことを恐れました。

このため、始皇帝に「韓非は韓の国の人間です。献策したとしても、秦のことより韓のことを考えるでしょう。それが人情です。かといって、今更韓に返したら後顧の憂いとなる。殺してしまうべきです」と主張しました。始皇帝がその意見に同意したため、韓非子は獄に繋がれます。

獄中の韓非は始皇帝に直接弁明したいと思いましたがそれも叶わず、李斯が人をやって届けさせた毒薬で自殺してしまいます。

己の非凡な才を如何なく発揮した書を著したことが遠因で秦の始皇帝に捕えられた韓非子。己の才知で自らに降りかかった危機を乗り越える事はついに出来ませんでした。

司馬遷はこの韓非子の最後について「君主への説得の難しさを非常によく熟知していながら、その難しさから逃れることが出来なかったことが悲しい」と述べています。


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