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古代の史書『史記』に見る世渡りの巧拙

★まずは「拙」バージョン~高潔オンリーだと厳しい~

『史記』の中で潔い生き方をした高潔の士として挙げられるのは伯夷・叔斉という二人の兄弟です。

社会的名誉を捨てて人として清く正しい生き方を貫き、義や孝を重んじた結果、彼らは社会的な栄達を捨てて山に隠遁しました。
この、権力に固執せず美徳を最優先した生き様は「高潔」と称えられます。

ではこの伯夷・叔斉の兄弟、一体どういう人物でどんな人生を送ったのでしょうか。

『史記』によれば彼らについての記述は以下です。

「伯夷と叔斉は殷(古代の国名)の諸侯の子息だった。彼等の父は、兄の伯夷ではなく弟の叔斉のほうに自分の跡を継がせたいと思っていた。
 二人は、父親のこの気持ちを察していた。だが父が死んだ時、弟の叔斉は通例通り兄の伯夷に位を譲った。
すると伯夷は『弟が父の跡を継ぐのが父の意思だ』とこれを受けずに国を去った。すると、弟も父の跡を継ぐことをよしとせず国を去った。このため、別の兄弟が父の跡を継いだ」

歴史を概観すると、権力者の父親が死ぬと兄弟同士で骨肉の争いが起こるのが常です。しかし伯夷・叔斉の兄弟はそうした生き方とは対照的です。互いに権力の座を譲り合い、結局二人とも跡を継ぎませんでした。

さて、伯夷・叔斉のその後について語る前に、当時の時代背景を念頭に置いておく必要があります。

この当時、殷という国が中国を統治していました。当時の殷の王様は紂王と言い、ローマ皇帝ネロのようないわゆる暗君(悪い王)として有名です。このため殷は武王という人物に滅ぼされ、周という国になります。

余談ですが、この殷周革命をモチーフに生まれた小説が『封神演義』です。日本でも漫画やアニメになったことがあるので、ご存知の方も多いかもしれません。「神奇小説」と言われる位、面白おかしく脚色され仙人や妖怪などが出てくるファンタジーな作りになっています。ただ、「暗君として名高い紂王が統治する殷国を、武王が滅ぼして新しく周国を建てる」という部分は史実です。

伯夷・叔斉が生きたのはちょうど、殷が倒れ周になる時期と重なります。実は武王と伯夷・叔斉のやりとりも『史記』に以下のように記されています。

「武王は自分の父が死んだ後、殷の国を倒そうと挙兵した。伯夷・叔斉は武王を諌めて言った。『父の西伯が死んだのにきちんとした葬儀もしないまま挙兵するのは親孝行と言えないし、自らが仕える殷の国王を討って国を転覆しようとするのは臣下の道に背く』。

これを聞いた武王の側近が二人を殺そうとしたが、太公望呂尚がこれをおしとどめ、伯夷・叔斉をその場から去らせた。

武王が殷を滅ぼして周を建てると、伯夷・叔斉の二人は自分の主君を倒して自らが権力を握った武王の行ないを恥だとして、山に隠遁した。二人は山菜で命を繋いでいたが、やがて食べるものが尽き山中で餓死した」

二人の生き方について、作者の司馬遷は自らを重ね(※後述します)深い同情を示しながら次のように述べています。

「ある人は『天は常に善人に味方する』という。では、この伯夷・叔斉のような者たちは、善人なのか、そうでないのか。善き仁の行ないを積み重ね、潔い生き方をしたことは今述べたとおりだが、最後は二人とも餓死して一生を終えることとなった。

実は、このような例は歴史上、枚挙にいとまがない。たとえば孔子の弟子で最も優秀だと言われた者に顔淵(顔回)がいる。ある時、孔子は顏淵だけが「真に学を好む、登用に値する人物(好学の士))」としてある国に推挙した。

しかし顔淵の最後はどうだったか?もともと貧乏な生まれだったこともあり、しばしば無一文となり、結局満足な食事もできず若死にした。『天は常に善人に味方する』というが、話が違うではないか。

これと対照的な人物に、盗跖(盗蹠)がいる。
彼は毎日、罪も無い人々を殺し、その人肉を食らい、欲望の赴くまま悪逆非道の行いをし、手下を数千人集めて大手を振って世間を歩き、最後は天寿をまっとうして死んだ。これは一体、彼が何の道徳に従がったというのか。

この二例だけでも、『天は常に善人に味方する』が機能していないことは明らかだ。

更にもっと近い時代の例をひくなら、行ないが倫理道徳に適っておらず人にとても言えないことを平気でしているのに、一生涯、何不自由無く遊楽にふけり財産も豊かに持っていて、しかもその家も代々続いて絶えない者がある。

これとは対照的に慎重に立場を選び、時宜が適ってから自分の意見を述べ、邪道や近道を避けて正道のやり方で生きているのに、それでも不幸に遭う人は無数にいて、数える事も出来ない。

私は、非常に困惑する。常に善人に味方するという天道なるものは、果して本当に正しいのだろうか、と」。

★次に「巧」バージョン~精神性と俗欲のバランスが大事~

さて、先の伯夷・叔斉と対極の生き方をしたのが管仲です。多くの毀誉褒貶がありながら、為政への貢献に関しては生前から高い評価を受ける人物です。

伯夷・叔斉の“清廉ではあるけれど為政には全く貢献しなかった生き様”とは対照的に、管仲は自分が仕えた王に勝るとも劣らぬ贅沢な暮らしをしました。しかし、国民は誰も彼が分不相応な贅沢をしていると思わなかったという有名な逸話があります。

では『史記』の中で管仲がどのように描かれているのか。もう少し詳しく見てみましょう。

「管仲は潁水のほとりの出身者である。若い頃、鮑叔牙という人物と交流があった。当時から、鮑叔牙は管仲が逸材であると感じていた。しかし若い頃の管仲は貧乏で、いつも自分が得するよう鮑叔牙をだました。しかし鮑叔牙のほうは管仲に常に丁寧に接し、管仲の振舞いに何も言わなかった」

この部分だけ読むと、管仲より鮑叔牙のほうが明らかに「人間が出来ている」ように見えます。鮑叔牙のほうが社会に出ても成功しそうな感じがします。

しかし実際に大活躍したのは管仲のほうであり、政治的な功績も鮑叔牙より管仲のほうが有名といってよいでしょう。これは一体何故でしょうか。

『史記』は以下のように続きます。

「時が流れ、鮑叔牙は斉国の公子・小白に仕えた。管仲は公子・糾に仕えた。小白が斉国の統治者となり、糾は殺された。糾に仕えていた管仲は捕えられ、当然処刑されるところだった。

しかし鮑叔牙は、小白に『あなたが斉の国の統治者で終わるつもりなら、私程度の者が貴方の臣下にいれば十分でしょう。しかし、天下に名を馳せたいなら、絶対に管仲が必要です』と言葉を尽して進言した。このため、管仲は処刑されず小白に仕えることになった。

のちに小白は、本当に天下に勇名を轟かす覇者・斉の恒公となった。諸侯をたびたび集めて会盟し、天下に秩序をもたらしたのは、管仲のはかりごとがあったからである。

管仲が言ったとされる言葉が残っている。

『私をこの世に産んでくれのは父母だが、私を真に理解してくれたのは、鮑叔牙だ』。」


管仲と鮑叔牙の交際のあり方は終生変わらず、後に「管鮑の交わり」と呼ばれるようになります。理想的な交際のあり方の一つとして、今でも有名な言葉です。

さて、では鮑叔牙がここまで高く評価していた管仲、どのような能力を発揮し名宰相として歴史に名を残したのでしょうか。

『史記』によると、管仲の行った施策は以下です。

「彼は斉の国の貿易を盛んにし、その利益で人々の暮らしを豊かにし安定させた。国民は喜んで働き、産業、商業が活性化した。

管仲が書いたとされる『管子』という書に(※注:実際は後世、別の人間によって書かれたというのが定説です)。

「倉に穀物が満ちてから、人は礼儀を理解できる。衣食が満たされると、人は栄誉や羞恥について考える(倉稟満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る)」という言葉がある。

この言葉の如く、管仲の言うことは分かり易く民も実行しやすかった。

彼は国民が欲するものを与え、嫌うものを取り去った。その政治のやり方は、災いを転じて福となすようにし、失敗を利用して成功するようにし、ものごとの優先順位を重視し、極端に走らないようバランスにも注意した」


貧窮の状態では礼も恥も考える余裕などないし、人間は経済的に充足しないことには心の豊かさに思いをいたせません。まず経済的に充足することが大事だ、というのは貧乏で苦労したことがある人間なら誰でも納得する言葉でしょう。

懐と心ならまず懐を満たすのが先で、他のことはその後だということを、若い頃の貧乏生活で肌身に沁みているのが管仲だったはずです。

若き日の経験と己を知る友・鮑叔牙の助力により大いに政治の腕を振るい、斉の桓公が覇者となるための国力を蓄えることに貢献しました。

管仲の特徴を一言で言うと、卓越したバランス感覚の巧みさです。理想に突っ走るのでもなく、かといって理想を切り捨てるわけでもない。極端に走らず、理想と現実を行き来して、状況を見ながら臨機応変に行動する柔軟さが際立ちます。

「管仲が死んでも、斉国は彼が遺した施策に従い常に他の諸侯よりも国力強大だった」と『史記』には記されています。

中国思想ではバランスが取れていることを「中庸」と呼んで非常に貴びます。

非命に倒れるか、終りを全うするか。

管仲にあって伯夷・叔斉になかったものは一体何か?ということを考えた時、彼らの明暗を分けた大きな要因は「中庸」つまり極端に走らないバランス感覚だということに気づかされます。

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