追悼 はませさんとの出会い〜飯能時代


はませさんと最初に個人的に話したのは、渋谷にあったレコード屋Quintrixだったと思う。
私もその頃はDJをやっていて、毎日のようにレコード屋に行き新譜をチェックしていた時期だった。Quintrixは知っている人も多いと思うけどお店の一角にカフェスペースがあり、そこで飲み物を飲んだりできた。
あるお正月明け頃にはませさんはそこでお酒を飲んでいて、隣に座って話したのが最初だった。第一印象は、昔から活動してる有名なDJなのに偉そうなところがなく、優しそうだなという感じでした。
その後、地球家の地下でのはませさんのやっていたパーティーでのDJに誘っていただいいた。
そのころの私は、先輩DJやそのお友達のとある事件に関与したとみなされた後で人生最悪の人間不信、鬱状態に陥っていて精神状態が悪く他人を信用できない、コミュニケーションが難しい状態でした。パーティーやDJも昔みたいに楽しみたいけど楽しむことができず、今思い出しても辛く苦しい時期でした。
今思えば、それがあったお陰で今の自分があるわけで、自分の気づきをワープレベルで急速アップさせてくれたのですがその時はそう前向きに考えることが難しく、希望が持てず暗く長いトンネルにいるような気持ちでした。
はませさんの穏やかな優しい雰囲気にそんな私の固く閉ざした心も少し緩み、久しぶりにDJをやってみようと思えた。
そして、すごく楽しいパーティーになった。
そのころはませさんは地球家の上の階にあるゲストハウスに住んでいて、DJやパーティー関係者の溜まり場にもなっていたのでちょくちょく地球家に遊びに行くようになった。

そして、段々と穏やかな雰囲気のはませさんに惹かれるようになりお付き合いするようになった。

付き合いが始まって親密になるにつれて、私は自分の精神状態のことや他人が信用できなくなったことを話した。はませさんも幼い頃にお母さんを亡くしたことや辛かったことを話してくれた。
今思えば、お互いの傷を癒し合うような関係だった。そして、私たちには未来への希望が必要だと話し合って、子供を作ろう!ということになった。

息子を妊娠中から準備をはじめてたはませさんの夢だったクラブ、イルミノイド。知る人ぞ知るお店の裏部屋で息子の妊娠時代をすごした。
お風呂がなくて毎日スーパー銭湯に行けるのが最初はうれしかったけど、お腹が大きくなるにつれゆっくり自宅の湯船につかりたいって気持ちが強くなっていったのをおもいだす。
自然出産を希望していた私は飯能で望むような助産院探しが難航していたそんなとき、つい最近自宅で助産師もつけず夫婦だけで出産したという友達夫婦の話をきく機会があって息子は自宅ではませさんと二人で出産することになった。
その友達に自宅出産にかんすることが細かくかいてある本を教えてもらい出産まで体調管理と勉強をたくさんしてすごした。
出産予定日の数週間前にお店から車で30分山の中に走った山と川に囲まれた美しい村の古民家を借りれることになって、自宅出産に備えることができた。この古民家で過ごした日々は私の人生のハイライトの一つだったことは間違いない、キラキラとした美しい日々だった。
夏は庭先から河原に降りて泳いだり、冬は温かい縁側で太陽の光に包まれながら息子の輝宇太(きうた)に授乳をしたり一緒にうたた寝したり。
お店に行くことも段々と少なくなり、私は田舎の古民家ぐらしを満喫していた。
でも、いいことだけではなかった。
はませさんは逆にだんだんと家に帰ってくることが減って、お店ですごすことが増えていった。
私は子供がうまれて自然と心も体も母親になっていったけど、はませさんは夢だった自分のお店でパーティーライフを満喫していたのだろう。
私は家庭をないがしろにされているような悲しい気持ちになり、はませさんは文句をいう私と顔を合わせたくなかった。
そうしてだんだんとすれ違いが多くなり、言い争いも増えた。
そんなころ、二人目の子供を妊娠した。
私は、神様がそんな二人がやり直すチャンスをくれたんだとおもい、不安はあったけど出産を決意した。でも、二人のあいだのズレは修正がきかないくらいおおきいものになってしまっていた。
そして、臨月にした大喧嘩をきっかけに私は1995年から2000年までの間に長期滞在を何回もしたインドのゴアに息子を連れていき出産をすることにした。
はませさんも私との生活に希望を持てない状態だったので反対することもなかった。

私は臨月で息子の輝宇太は10ヶ月。医者の診断書がないと搭乗できないらしく乗り継ぎのあったバンコクの空港内の医者に急遽診断書をだしてもらいインドに行くことができたのだった。

今思えば、1歳にも満たない赤ちゃんと、臨月の大きいお腹、そしておむつやいろいろな荷物。どうやって行ったんだ、私?周りのひとたちの助けなしではとうていなしとげられなかったことは間違いない。いまこの場を借りてあらためて、助けてくれた皆さんに感謝の気持ちをおくります。本当にありがとうございました。

そして、ゴアについてからスクーターを借りて、大きいお腹で赤ちゃんととバックパックをもって家探し。だいぶぶっ飛んでたな、、、私。でも、そのときは生き延びることに必死だったからそのパワーも出てきたんだろう。そしてその生き延びるためのパワーは間違いなくお腹の中の娘、蓮からでてきてるものだった。それに必死で答えようとする私だった。

続く


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