満州に渡った人 淵上白陽-熊本にゆかりのある写真家
淵上白陽(ふちかみはくよう)は1889年熊本県菊池郡生まれで神戸や満州に拠点を移して活動していた写真家だ。8月の菊池川流域には蛍が橙の豆電球のような色形で浮遊している。彼はそんな風流な土地柄で育ったのだろう。
淵上の簡単な資料を探そうとネットで検索をしていると、岩波書店の「日本の写真家」シリーズがヒットした。全40巻+別巻とある。なんと、予想を裏切らない...全員男性の写真家だった。自分がジェンダー警察っぽくなってしまっていて嫌だけれど、女性写真家がゼロなんだ、おーー、またかーー、となってしまった。もちろん、第六巻の淵上の回の編集も男性3人(中野重一さん、飯沢耕太郎さん、木下直之さん)。ついでに、本に寄稿している名古屋市美術館の学芸員の竹葉丈さんも男性。本当に写真って男社会なんだなぁ...とつくづく思う。たぶん令和で変わっていくんだろうけれど、これ誰かが言い続けないと絶対ずっと男社会のままだから、言い続けよう...。
まず、竹葉丈さんにお礼を言いたい。おそらく彼が1994年に名古屋市美術館で「異郷のモダニズム 淵上白陽と満州の写真家たち」という展覧会をしてくださらなかったら、 淵上はどこか地層の奥深くに埋もれたままになっていただろうと思う。ありがたい...。
さて、驚いたことがあった。淵上白陽は熊本出身としては唯一MoMAに作品が収蔵されている人かもしれない。地元出身の写真家の作品がMoMAに所蔵されているとは、郷土愛がまた高まる...。とても嬉しい。1933年、シカゴ万博の「満鉄館」で発表した写真が、全米23市を巡回し戦後にエドワード・スタイケンの依頼でMoMAに所蔵が決まったそうだ。
淵上白陽はもともと1922年に月間写真画集『白陽』を刊行し、日本光画芸術協会を立ち上げ全国的に作品の公募をし、展覧会をしていた。1926年に彼が発表した《円と人体の構成》は代表作だと思うが、写実性からは少し遠い、大胆な構図で実験的な作品制作をしていたことが伺える。かっこいい。
先ほど挙げた『白陽』が残念ながら短命に終わり、その次の活路を満州に見出したとされているが、その名称が「満州写真作家協会」。ここで驚くのが「作家」と入っていることだ。「報道」や「広報」としなかったところに、わたしは淵上の気持ちが入っているなぁと思う。協会に所属していた写真家は生活者や工場、鉱山やロシア人をモチーフに撮っているが、写実性の中にも構図で遊んでいるような、撮り手の存在が分かるような写真が多かった。協会の写真集は『光る丘』としてまとめられているので、いつか見てみたい。
正直、まだ1930年代前後の写真のことは詳しくないけれど、大正時代の写真がとっても気になっている。戦争に突入する前の、割と緩やかな時期の写真について知りたい。(10年ごとに写真家をメモして、作家や作品の移り変わりなどをノートにまとめたいものだ...。これは自分のためにいつかやろう。)
参考図書:『日本の写真家6 淵上白陽と満州写真作家協会』岩波書店,1998
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?