とある流産の記録(手術前日の心境編)

明日、わたしは流産手術を受ける。

順調に育っていれば9週3日目になったはずの日。

毎朝トツキトオカのアプリを開いて週数を重ねるのを心待ちにしていた習慣も、経過が悪くなるにつれて見るのが辛くなりいつの間にかやめてしまった。

心拍停止を宣告されたのは今からちょうど1週間前のこと。

1日1日がとても長くて辛くて終わらない悪夢をずっと見ているかのようだった。

あぁこの現実は夢ではなかったのだと、思い知らされる朝が1番嫌いになった。

手術や検査のことを調べて調べて調べ疲れると、何もする気が起きなくなって、家事をすることもお風呂に入る気もなくなって、ただただぼーっと時が過ぎるのを待った。

悲しい、という感情はなぜかすぐに薄れてしまい、無気力感と理不尽な怒り(なぜわたしだけこんな目に遭うのだろうかと)、将来に対する漠然とした絶望感のほうが今は圧倒的に強い。

赤ちゃん(になるはずだった何か)に対する気持ちではなくて、自分のことばかり考えてしまうことに罪悪感を感じる。

わたしはこの妊娠のことを誰にも伝えていない。

親にも伝えていなかったので、流産のことも伝えずに済んだ。昔から、親には弱さを見せたくないという気持ちが強かったので、伝えていなくて本当に良かったと思っている。

だから、このことを知っているのは夫だけ。弱音を吐けるのも支えてくれるのも夫だけ。何食わぬ顔で仕事をして、家に帰ってくるなり涙が出る。

夫は憔悴しきったわたしを慰めてはくれるけれど、本当に心を理解してくれているわけではない。がっかりした気持ちはもしかしたらわたしより強いかもしれないけど(子どもを強く望んでいたのは夫の方だ)、妊娠をして体も心も制約がかかって生活が全く変わってしまったのも、病院に通ったのも、心拍が止まっているのを確認したのも、動かない子どもをお腹に入れたまま生活をするのも、手術をするか決断したのも、お腹に機械を入れて子どもを取り除かれるのも、全部わたしだから。

当事者ではないから、ほんとうの気持ちを理解するのなんて無理だから

泣いている時間が減ったから回復してきているねとか、手術が終わればひと段落だねとか、この子はまたすぐ来てくれるよだとか、平気で言えるんだ。

もちろん慰めてくれるためだとはわかっている、けど、そうではない、そういうことではないと頭がその慰めを受け入れることを拒否するのだ。

わたしがこんなに傷ついているのは、他の人が当たり前のようにこなしている出産に躓いて、体が欠陥品なんだと感じていることなのか。これから先もう一度妊娠をしたいと思えなくなってしまったことなのか。

今日は友達から出産報告を受けた。

わたしも明日流産手術なんだ!がんばるね!とは言わず、おめでとう、ときちんと返したことを褒めてあげたい。

きっといいことがある。そう信じないと生きていけない。

明日が怖い。

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