ひい婆と爺とえみ

今回は母方のひい婆と爺の話だ。

まずひい婆は、私が小学校四年生の時に死んだ。お棺にひい婆を入れる時、私も一緒に手伝った。他のいとこたちの中でただ一人。
それは私がひい婆に誰よりもお世話になったから。

これは爺も同じだ。私は孫の中で誰よりも、爺にお世話になった。
なのに私は爺を見捨てた。

小学校低学年の私は、よくひい婆の家に家出をしていた。
といっても低学年が行けるほど近かったのだ。
ひい婆は認知症が入っていたが、近所の人、地域の職員さんのお陰で、家は賑やかなことも多かった。

母方の爺と婆は離婚していた。
私はどちらとも関わっていたが、他のいとこたちはひい婆と爺とは関わっていなかった。
正確には関わることができなかったと言った方が正しいか。

ひい婆はいつも周りに私のことを自慢してくれていた。
「この子は来るたびにちゃんと仏壇にまいる」
「この子は将来べっぴんになる」
と。

そんな私がひい婆に本気で怒られたのは一度だけ。それも仏壇への向き合い方だった。
信心深い人でありながら、あそこには私の知らないひい爺がいた。今ならあの時怒られた意味が分かる。

そして爺だ。
爺は、無口な人だった。
爺はひい婆の家の近くの被曝者関係の(あえて少し濁します)施設にいて、よく戻ってきていた。
そんな爺に、私は付き纏う。

自転車で移動する爺の後ろに乗り、向かう場所は主に二箇所。
まず爺のいる施設。一人で来た時はここで名前を書くんで、靴はここで、と爺の教えを受け、施設をとことこ歩く。

そこで、いつも私を待ってくれているおじいちゃんがいた。なんとも失礼なことに、私は名前すら覚えていない。
だがそのおじいちゃんは、いつも嬉しそうにコーヒー牛乳を二個くれた。
恥ずかしながら、その二個は爺と飲めという意味だと分かったのは大人になってから。
二個とも持っとけという爺の言葉にただ喜ぶだけだった。

そしてもう一箇所は、スタンド。いわゆるスナックだ。
今なら児童なんとかが大騒ぎ案件である。
そこには、優しくて元気なおばちゃん(おばあちゃんに近かった?)ともう一人お姉さんがいて、お姉さんと会うことは少なかった。なんせ行く時間が早かったから。
何故か私は高待遇。
フルーツもりもりにアイスが勝手に出てくる。カラオケまで歌える(当時持ち歌は一曲)。
一番の高待遇だ。
最早常連と言っても良かったのではないか。
まぁ、一度、まだ当時家で生活していた母親に行き先を言わず、爺とスナックにいたら大騒動になったのは黒歴史である。

爺と居酒屋に行けば、見知らぬおいちゃんが何かしらくれた。天ぷらやら唐揚げやら。
「大将の孫か!食え!」と渡される。
よくわからないが、貰えるものは貰ったし嬉しかった。

爺は無口だったが、私の希望も叶えてくれた。
プールに行きたいと言えば市民プールに連れて行ってくれた。
その時、爺から唯一の教えを受けた。
一緒にうどんを食べていたのだが、私は小学生、爺は爺、少し量が多い。
そんな私に爺が言った。
「えみ、うどんも蕎麦も、残す時は汁だけは全部飲め。汁も麺も残したら、作ったもんが不味かったのかと思ってしまう。じゃが汁を全部飲めば、不味かったんじゃなくて美味かったが腹がいっぱいだったと分かる」
無口な爺のたった一つの教えだ。
塩分!!と今なら突っ込まれるだろう。
だが爺は、作る人の気持ちを考えられる人だったのだと今なら分かる。

爺は、小学校の運動会で来賓席(テントで椅子がある席)に座れる人だったのだが(大人になって知った)他の保護者と同じように暑い中見に来てくれた。
その時爺と婆が鉢合わせしてしまったのだが(笑)

そんな爺に、私は酷いことをした。

ひい婆が亡き後、自然と爺と会わなくなった。母の状態は悪く、家庭環境は大事。
電話で助けを求める場は、婆や母の姉。要は爺と相入れない方。
そこでいつも言われた。
「お母さんは病気なんだからあんたが我慢しなさい」
それと同時に言われた。
「お母さんが病気になったのは、爺のせいだ」
と。

信じてしまった。子供の私は、それを全て信じてしまったのだ。

中学生の時。ひい婆の法事。久しぶりに爺に会った。私は一言も爺に話しかけなかった。爺も私に何か言うことはなかった。

そのまま私は、介護福祉士となり、とある病院併設の施設で働いていた。
施設を移っていた爺に、私は一度も会いに行かなかった。
そんなある日、職場近くの別の病院に爺は運ばれた。
それでも私は行かなかった。

その日。朝から父親が病院に呼ばれた。
母も母の姉も病気で、婆とは離婚しているから、動けるのは父親だけだった。
今でも覚えている。その日は水曜日。たまたま私はシフト上休みの日。一日中寝てやると思っていた。

その時、夢を見た。元気な爺の夢だった。それと同時に飛び起きた。今でいう、「虫の知らせ」というものなのだろうか。

行かなきゃ。私はタクシーに飛び乗っていた。
そして私が来るのを待っていたかのように、私がついた途端、規則正しかった爺の波形はゆっくりと下がり始めたのだった。

爺の通夜後、母の姉と婆、いとこが来た。

だが葬式は、私を入れて3人。
父親の爺の祭りの葬式。爺の3人だけの家族葬。
ただ、辛かった。
この違いはなんなのかと、怒りさえ湧いた。
その怒りは誰にでもない、自分自身へ向かう。

私が知ったのは、全部爺が死んだ後だった。

爺が実は原爆後、今のPARCOがある一帯を復興させたうちの一人であったこと。
爺も文字を書いていたこと(俳句系)。
爺は特攻隊として招集されていたこと。
色んなことを幅広くやって、海外の人にも沢山知り合いがいたこと。

だから私が周りからあんなに高待遇だったこと。

だからこそ、爺が死んだことを公にできなかったこと(公にしたら人が大事になっていた)

母が病気になったのは、決して爺だけのせいじゃなかったこと。

子供だから。そんな言葉で自分を許せない。
それでも爺は、私が来るのを待っててくれたように旅立った。

それから何年も経って、私は念願の、広島最大のお祭り、フラワーフェスティバルの舞台に立った。
父方の爺が、初回か第二回目で神楽を舞った祭り。私の憧れの祭り。
躍り狂いながらパレードで向かうゴールは、平和記念公園。
平和記念公園の慰霊碑の中の名簿には、ひい婆と爺の名前がある。
ゴールでは二人が見ていてくれる。そう思いながら踊り狂った。

爺、今なら分かるよ。
みんなが母親を止める為、えみに我慢を強いた時期、爺だけは黙ってえみを守っててくれたこと。

爺、えみがそっちに行った時は、コーヒー牛乳、二人で飲もうね。

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