成田新幹線がもし出来たら京葉線はどうなってたの?

この地図を見て「こんな地図だったら四国新幹線は今頃東京から淡路島を通って徳島・高松・松山に抜けるルート出来てるんだろうな」と思ったのですが、では東京側の駅は何処に作られるのでしょう。

まあ、成田新幹線予定地になっていた京葉線東京駅のスペースなのでしょうが、じゃああの空間に新幹線が出来ていたら京葉線は都心にどうやって乗り入れてたのでしょうか?有楽町線?りんかい線?

答えは簡単。東京では無く新橋経由で汐留貨物駅の直下に作る計画でした。

国鉄で1976(昭和51)年12月8日及び9日に開催された「第27回停車場技術講演会」における「総武開発線計画について」で、国鉄東京第一工事局調査課の林良一氏の資料によると、総武東京駅ではキャパシィオーバーとなることが想定されたことから、新橋にリニア中央新幹線を含めたターミナルとして整備することが望ましいとされています。

さらに京葉線(当時の仮称は総武開発線)は新宿方面から三鷹への延伸も想定されていました。その一方で貨物駅は当時東京貨物ターミナル駅への完全移転は想定されておらず、貨物駅の立体化を視野に入れていたのです(!)

複数案ありますが、総武快速・横須賀線の地下駅を設置しているため、地下約43mと大江戸線六本木駅(下り線)や、都心部の大部分が大深度地下に則って建設されるリニア品川駅並みの深さです。おそらくルートとしては環状二号線沿いに建設されたのでは無いかと思います。

その一方で有楽町線との乗り入れには否定的に取り扱っておりました。

しかし、国鉄改革と成田新幹線が双方実現していたとしたら、汐留駅は清算事業団の土地となり、バブルを煽るという理由から、バブル崩壊まで長い間保留地とされた事情から、長らく建設は大きく遅れていたはずで、一度断念していた有楽町線との乗り入れが再燃していたかも知れません。

もっとも京葉線の都心乗り入れと国鉄改革とは直接的に無関係で、国鉄時代から鉄建公団が建設していたものの、開業時期がたまたま民営化後だったという関係に過ぎず、輸送力増強は望まれていたものであるが故に国鉄時代から建設自体はされていたかもしれませんが、汐留シオサイトの区画整理は京葉線の駅に左右されていたものと思われます。

ちなみに、成田新幹線東京駅も12両編成対応2面4線で設計されており、スペースが足りないので都庁の用地にはみ出しており、仮に建設されていたら東京国際フォーラムの設計には苦労していたか、はみ出した分縮小して建設されていたのかも知れません。

仮に伊豆沖に四国がある世界線で四国新幹線を建設するとなると「16両編成対応」となっていたと思いますが、その場合2面3線になっていたか、妥協して12両編成になっていたのかが気になります。


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