【浪人総括】4年後の合格体験記

「浪人してよかったです。」

予備校が出すような合格体験記にありそうな言葉である。この言葉、もしくはこれに近いニュアンスの言葉を合格体験記の中に見つけたとき、私は閉口してしまう。なんと自分の気持ちに素直なんだろう。志望校に受かって嬉しいので、すべての物事がポジティブに捉えられてしまう。この気持ちはわかる。が、ここはもう少し冷静に捉えたい。浪人までしてその大学に受かって本当によかったかどうかは、少なくとも大学卒業時にはじめてわかることではないのか。その大学で学ぶために1年余計に頑張ったわけであって、受かるだけのために浪人したわけではないだろう。合格直後の「浪人してよかった」は、受かることがゴールになってしまっている。君の浪人生活はそんな軽いものなのか?

大学を卒業する今、浪人を総括する

2017年3月、現役で志望した京都大学に落ち、後期の出願先にも受からず、私大は受けていなかったため浪人。長くつらい浪人生活に耐え、1年後には京大合格を手にすることができた。
運よく認定がとれていたため、河合塾のSOW京大文系で1年を過ごしたが、聞くところによると、同期SOWの京大合格率は8割ほどだったという。恐ろしい集団だったことは明白だが、実のところ、この数字は京大を受けた人のうちで受かった人の割合であり、さらに、SOWの下のクラスでは合格率・受験率ともにぐんと下がる。浪人して志望校に合格できることは当たり前ではない。浪人して志望校に合格できた私はそれだけでも恵まれており、どちらかというと浪人してよかった側の人になってしまうわけだが、ことはそう単純ではない。
浪人というのは、得るものがないわけではないが、経験した者にしかわからない大きな犠牲と苦痛を伴う。浪人して受かった場合、はたして大学でその犠牲と苦痛に見合うだけの享受があるのか、そして、それは現役の時に出願先を変え、別の大学に受かっていた世界線と無理にでも比べてみた場合よりも良い結果になるものなのか。それらを検討せずして「浪人してよかった」と言い切ることはできない。
その検討が最初に可能になるのが、大学卒業時なのである。

4年後の合格体験記を書くにあたって

このnoteは、だいぶ恵まれた環境に身を置けているにもかかわらず、いつまでもウジウジと浪人を引きずっている人が書き出す個人的な感情吐露である。こう考えている人もいるという程度で参考にしてもらえればよく、浪人の価値について他人の考えを否定するものではないことはここに断っておく。
さて、現役合格の世界線と浪人合格の世界線の比較とはだいぶ厄介な思考実験である。そもそも浪人しても志望校に合格できないことがザラにあることは先ほども述べた通りで、第一志望に受からなかった場合の浪人の意味をどう扱うのかは、私がその当事者ではないので述べることはできない。ここでは、どこまでも私の状況に沿った形でしか記すことができない。つまり、具体的には、現役時に出願先のレベルを落として合格する世界線と浪人して元来の第一志望に合格する世界線の比較である。
以下、現役合格・浪人合格によって変化をきたすであろうことを列挙し、それぞれについて「良さの差」を推測する。その差の合計が、浪人の犠牲と苦痛よりも大きければ、「浪人してよかった」ことになろう。

①大学のネームバリュー

「京都大学の」という所属を名乗れることは、正直言ってまあまあ誇らしいことではあった。教育実習でもこの肩書を武器にしたことは否めない。ただ、この肩書による実利がいかほどのものなのかは、私にはわからない。なぜなら、大学のネームバリューが一番ものをいうであろう就職活動というものをまったく行っていないからである。
周りの京大生を見ていると、たしかに有名企業の内定を収めている人が比較的多そうには感じるが、それでも苦戦する人はする。単なる確率論でいえば、就活の際に見栄えのいい大学名を名乗れることは有利に働く可能性が高いと言えるだろうから、いい就職のためにどうしても第一志望に行きたいというのであれば浪人もそれなりの価値を持つのであろう。しかし、個人的にはそんな先行き不透明かつ大学を単なる通過点以下のものとしてしか捉えないのに、大学で学ぶ権利を得るために1年を犠牲にして浪人することに対して、そこまで意味は見いだせない。
私自身は就活をしていないので、就活に際しての大学のネームバリューの恩恵はまったく受けておらず、単に名乗れて心地いいかつ明和という狭いコミュニティの中で少し物珍しがられるくらいのものでしかなかったので、現役と浪人との良さの差はほとんどないに等しい(ただし、私の人生の中では「明和という狭いコミュニティの中で少し物珍しがられる」は大きな意味を持つ可能性はあるが……)。

②大学で享受できる物事

地方私大よりも早慶の方が、地方国公立よりも旧帝大の方が、名大よりも京大の方が、京大よりも東大の方が、そこの大学生となることで享受できる設備・知識の質が良くなることは真だと思われる。研究の面で言えば、講義の多様性や図書館の蔵書数は、良さの差に直結する。
ただ、自分の大学生活4年間を振り返ってみたとき、浪人して京大に来なければ享受できず今の自分がなかったとまで言えることがあったかと言われれば、すぐに答えを出すことはできない。私の今の研究関心の面だけを見れば、その元を作ったのは明和高校であり、大学はそれを研究へと昇華させることができると気づかせてくれたに過ぎない。そして、その気づきは、影響を受けた講義や本などから考慮するに、他の大学でも得ることができた可能性が排除しきれない。例えば、蔵書に関していえば、他大の図書を借りることは、アクセスの面で内部生と比べて劣ることは否めないが不可能ではない。また、講義に関しても大学コンソーシアムという制度で近隣の他大の一部講義を受けることが可能である。最終手段としては、現役時の第一志望を大学院の進学先にしてしまうということもできる。
さらには、研究以外の面、例えば各種サポートや福利厚生、学風などの面で言うと、それらは一概に偏差値に比例してよくなるとは限らない。
学風に関しては、京大という環境が非常にマッチしていたと思うし、自由な研究環境への憧れは多少なりとも持ちつつ浪人していた節はあるので、その点では浪人の良さが勝っていると見ても良いだろう。

③人間関係

これは大学で享受できる物事の範疇に入るものだが、結構大きなウェイトを占めるため、別個に取り出した。
単に人間関係というと、そんなものは偶然の要素が大きく、世界線間で比較しづらいものになってしまう。私自身、京大で築いた同期や先輩・後輩との人間関係には満足しているが、現役合格していたら彼女ができていたかもしれないし、そういうことで良さの差を図ろうとすると、大学の違いはささいなものになってしまう。
ここで重要なのは、個別具体的に誰と仲良くなったかではなく、大学ごとにどういう集団と出会えることができたかということである。京大で過ごしてひしひしと感じたことは、レベルの高い人間の密度の高さである。あらかじめ断っておくが、この感想は相対的なものではなく絶対的な体感である。他大の内実はわからないまま書いているので無責任ではあるが、特に院生の先輩方の数の多さと豊富なアドバイスには大きな影響を受けた。この環境がなければ、私は今頃、大学院になんか行かずに社会に出る準備をしていた可能性もある。が、こう書くと今度は就職した方が良かったのか、院進した方が良かったのかという問いになってしまい、浪人してよかったのかの問いは大学院修了後まで回答保留となってしまう。
少なくとも、今、研究に勤しめる環境に身を置けていることは、幸せだと感じられているので、現時点では人間関係の面から見ても浪人してよかったということになろう。この人間関係というものは、研究室に実際に所属しなければ得ることは難しく、②のように他大からでもアクセス可能なものではない。

現役合格と浪人合格の比較

①~③の結果を、浪人の犠牲・苦痛と比べてみよう。といっても具体的な数値があるわけでもなく、抽象的かつ仮定的すぎる思考の操作でしかないため、本当にただの感想でしかないが、実際、4年間の大学生活の充実度は現役であれ浪人であれさほど変わらないものだったのだろう。出来てくる成果物、具体的に言えば卒論の質は、浪人合格の場合の方が若干高くなり、また知識へのアクセスの面では浪人合格の場合の方が容易で比較的多くの知識を吸収して卒業することができたのだろうが、それが人生全体に対して及ぼす影響は、浪人の1年間に犠牲にしたものと相殺されているようにも感じる(浪人での犠牲と浪人合格で得たものとは重なり合うものではないので「相殺」という表現は適切ではないかもしれないが……)。
大事なのは、これからへの影響である。院進ということを考えたとき、浪人合格でしか得ることができなかったものが非常にうまく作用し、考えうる限りベストな状態で私をして院進へと導いたことは確かである。現役合格の場合でも院進の可能性は0ではなかっただろうが、おそらく院進に臨む際の状態は今より整っているものではなかっただろう。もし、今後、研究の道をこのまま歩み続ける場合、このアドバンテージは浪人1年の犠牲に少しばかり勝るものであるように思う。現役であれば1年早く、院進というスタート地点に立っていた可能性はあったが、浪人合格した先で得たものは、単に早くスタート地点に立つだけで得ることができるものではないからである。
しかし、研究とは別の道に進むことになった場合、浪人はあまり意味をなさなくなる。だからといって研究の道を選択しなければならないわけではないことは自戒として記しておくが、研究という不安定な道でしか浪人の意義を見出すことができないという結論は、なかなかに厳しいものである。

結論

以上から結論は将来における条件を付した形で示さざるを得なくなった。大学卒業時の暫定的な結論は以下の通りである。

・このまま研究の道を突き進む場合、浪人してよかったということができる。
・研究とは異なる道に進む場合、人生全体から俯瞰すれば、浪人してよかったと言い切ることはできない。なお、人生への影響は不明確であるが質の高い研究手法を身に付けるにあたっては「よかった」ということができる。

繰り返しになるが、普通に就活していれば、こんな結果にはならないと思われる。
ちなみに、思い出したように付け加えると、浪人による精神的な成長はあると思うし、それが人生にとってプラスになることはあると思う。だが、だから浪人してよかったとはならない。

これから受験生となる高校3年生へ

こんなことになりたくないなら現役で合格できるよう頑張ってください。浪人すれば、とか軽く言わないこと。夏の文化祭を言い訳にしないこと。

これから浪人生となる人たちへ

一口に浪人生と言ってもいろんな人がいると思います。前期単願でもう浪人するしかない人はしょうがないので気合を入れるしかありません。過去の選択にウジウジするのは、私のように大学卒業時にやりましょう。
後期や私大で一応席はあるけど、第一志望をあきらめきれずに浪人しようとしている、または浪人を決めた人は、もしかしたらこれを読んで少し後悔しているかもしれませんね。まあでもこれは特殊パターンなのでそんなこともあるんだふぅんと読み流してもらいたい……。ともかく、浪人するという決意をしたからには、それに対して本気で向き合うしかありません。ただでさえ、意味のある1年にできるかどうか難しいのに、たまに予備校にいる変に斜に構えて1年過ごすようなことをしてしまってはもったいないというか、疲れると思います。それと↓も読んでください。

これから大学生になる元浪人生たちへ

浪人してよかったかどうかは受かったかどうかではなく、受かった先の大学で何を人生の糧にできたかです。4年間で大学を使い倒してください。

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