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文常院の明和史コラム #3 除幕式直前!!~豊田喜一郎と明倫中学~

 文常院の明和史コラム。このコーナーでは、修士課程まで行って明和史を研究している私が、直接研究には使えないけど面白いなと思った明和高校の歴史をテキトーにまとめていきます。話のタネにでもどうぞ。


 豊田喜一郎顕彰碑の除幕式が明日に迫っているので急遽書きます!豊田喜一郎が何者であるかは当日の説明と皆さんの予習に任せ、ここでは喜一郎と明倫中学校との関係に絞って皆さんにお伝えしようと思います。これを読めば除幕式がもっと面白くなる!?大正明倫の学窓とそこで学ぶ一青年のリアル、とくとご覧あれ。

明治末~大正初期の明倫中学校

 豊田喜一郎の在学時代の様子を語るには、まず、当時の明倫中学の様子を的確に把握しなければなりません。喜一郎少年は1908年(明治41年)、開校9年目の明倫中学校に入学していますが、当時の明倫中学校は一体どのような学校だったのでしょうか?

明倫中学の変革期

 喜一郎が入学したこの年、明倫中学は創立以来の変革期を迎えていました。まず、喜一郎入学の1年ほど前、当時愛知一中と明倫中の校長を兼任していた日比野寛が解任されました。理由はおそらく生徒の同盟休校、いわゆるストライキによるものだと思われますが、その詳細は稿を改めて論じることとします。

明倫中学3代校長日比野寛
(『愛知県立明和高等学校史』)

 ともかく、当時の明倫中学はあまり素行はよろしくありませんでした。校長はしばらくの間教諭の千葉良祐が心得として担当することになります。正式な校長が赴任したのは喜一郎が2年生になる直前、1909年の1月。運営元である徳川家は満洲の奉天府師範学堂総教習であった森本清蔵という教育者を引き抜いてきたのでした。

明倫中学5代校長森本清蔵
(『愛知県立明和高等学校史』)

 次に喜一郎が入学して直後、校主であった徳川義礼が亡くなりました。義礼の死に際しては明倫中学のみならず名古屋の街中で喪に服したと言われています。入学早々、校主薨去という混乱に巻き込まれた喜一郎少年でしたが、校主はすぐに尾張徳川家19代当主の徳川義親(松平春嶽の末子)に代わり、学校生活は平常を取り戻していきました。

明倫中学2代校主徳川義親
(『愛知県立明和高等学校史』)

 このように、喜一郎が入学した年は校主・校長ともに代替わりが起き、それが明倫の校風にも大きな影響を及ぼすことになりました。これまでの日比野校長による愛知一中式の教育から、森本校長による独自の教育方針に代わったことよって、明倫の校風は規律を正していくことになります。入学前に見ていた明倫はストライキや暴力沙汰で新聞を賑わせる学校であったのに、いざ入ってみるととてつもなく厳格な校長がやってきた…!喜一郎とその同期たちは、この明倫の変化を窮屈に感じていたのでしょうか?それとも期待を抱いて過ごしていたのでしょうか?

明倫中学の生徒層

 校風に関しては上に見たようにこの時期、厳格さを増し、尾張徳川の名に恥じない名門の風格を身につけつつあった明倫中学ですが、実際にはどのような生徒たちが入学していたのでしょうか?
 『愛知県学事年報 第20』から、明倫に通う生徒の親の職業を窺い知ることができます。それによると、1906年に入学した生徒の親の職業構成は多い順に、商業33人(26.6%)、農業27人(21.8%)、官公吏・教員23人(18.5%)、工業5人(4.0%)、神職・僧侶5人(4.0%)、銀行・会社員4人(3.2%)、その他27人(21.8%)となっています。同じ年の愛知一中(現:旭丘高校)では多い順に、農業35人(20.7%)、商業34人(20.1%)、官公吏・教員17人(10.1%)、工業15人(8.9%)、医師・薬剤師14人(8.3%)、銀行・会社員8人(4.7%)、神職・僧侶4人(2.4%)、その他42人(24.9%)となっており、明倫中学は愛知一中に比べて商業や官公吏・教員の割合が高いことがわかります。
 次に生徒層を分析するうえで重要なのは授業料です。『愛知県統計書 明治41年』では喜一郎が入学した年度の各校の在校生数と授業料収入がわかるので、それらを使っておおよその1人当たりの授業料を換算することができます。それによると、明倫中学における当時の授業料は年額およそ17円で、これは実は愛知一中の年間授業料とほとんど変わらない値です。私立だからと言ってバカ高い授業料が徴収されるわけではなかったのです。
 では、授業料が低廉だからと言って学校設備がボロっちかったかというとそうではありません。そこは尾張徳川家という大資産家がバックについています。1908年度の明倫中学の経費は18,801円(生徒1人あたり35円)。日本消費者物価計算機という便利なサイトで現在の価格に直すと約6千万円と出ます。そのうちの約半分は校主御出金、つまり徳川家のポケットマネーで賄っていました。ちなみに愛知一中のこの年の経費(経常費)は26,733円(生徒1人当たり34円)です。今でこそ私立の方がなんとなく「豪華」な感じがありますが、当時は県が運営する中学校が少なかった分、資金を集中的に投下した公立校に劣らない学校をつくるだけでも大変なことだったと思います。
 このようなことを合わせて考えると、当時の明倫中学校は変にお坊ちゃま学校だったわけではないように思えてきます。商業人や官吏・教員の子息が比較的多かったことからは、なんとなく現在の明和高校にも通じる気脈があることが伝わってきます。愛知一中のバンカラ上昇気風とは一線を画して、徳川侯爵家の箔でもって規律と名声を高める紳士(?)校的雰囲気。森本校長による改革後のこのような校風のもとに集まった生徒たちは、したたかさと堅実さを併せ持つ、現在の明和生の原形ともいうべき人たちだったのではないでしょうか。

豊田喜一郎の明倫学窓

 喜一郎少年が入学した当時の明倫中学校の雰囲気を掴めたところで、ここからは豊田喜一郎の伝記によりながら(一部は訂正もしながら)、喜一郎少年の学窓に思いを馳せてみましょう。

『豊田喜一郎伝』の記述

 豊田喜一郎の伝記の一つに和田一夫・由井常彦著『豊田喜一郎伝』というものがあります。その本の中には「中学生時代の喜一郎」という項があります。読んでみると冒頭の和暦が間違っていたり、藩主経験のない徳川義礼が旧藩主となっていたり、いろいろと訂正する部分はあるのですが(顕彰碑のQRコードを読み取るとこの『豊田喜一郎伝』の抜粋が出てくると思いますが、これらは原本の間違いであって明和会担当者が間違えたわけではないのでご承知おきを)、一番気になるのは、明倫中学の生徒は旧藩士の子弟が多く、喜一郎はなかなかなじめなかったのではないかという記述。これは本当でしょうか。手元に明治36年度の全校生徒に占める士族率と大正8年度の1年生に占める士族率のデータがあります。前者は37.3%、後者は26.2%であることから、ちょうど中間あたりの喜一郎在学時代も士族率はおよそ3割程度だったことが推察されます。人口比から言えば確かに多くはありますが、それでも過半数は平民が占めています。士族が多いというのは現在のところで言う○○中学出身者が多いくらいのイメージでしょう。入学当初は固まるかもしれませんが、そんなものは徐々に打ち解けていくはずです。
 しかしながら、喜一郎にとって問題だったのは、『豊田喜一郎伝』にも書かれている通り、本人が友人を求めるために努力するタイプではなかったことです。友人を得るまでに苦労したかもしれない寡黙な喜一郎少年でしたが、最終的には何人かの友人を得、なかには卒業後、彼が事業を興すにあたって協力してくれたものも少なくなかったと言います。『豊田喜一郎伝』の「中学生時代の喜一郎」の項は、「この点で名古屋の明倫中学は、喜一郎の生涯にとって重要であった。」と結ばれています。

『豊田喜一郎氏』の記述

 豊田喜一郎にはもう1つ伝記があります。それが尾崎正久著『豊田喜一郎氏』です。実はこちらの方が中学生時代の喜一郎について詳しく記載しています。
 入学時は父佐吉の事業も軌道に乗り、いくぶんか生活にもゆとりができていたころだったといいます。喜一郎は県師範学校附属小学校、今でいう愛教大附属の出身でした。喜一郎の当時の家は、西区島崎町。現在のノリタケガーデンの近くです。そこから明倫中学まで片道4.4kmを毎日1時間かけて通っていたのでしょう。
 喜一郎の入学後、父は自動織機発明に財をつぎ込み、生活は傾いていきました。喜一郎は父の次の事業がうまくいかなければ僕も腹を決めねばならぬと、上級学校進学を断念する覚悟を周囲に漏らしていたようです。
 コツコツと勉強するタイプのようでしたが、成績は中の上くらい。体育は苦手で、授業料は滞りがち。交際下手な喜一郎は、暇さえあれば紙に絵を描き線を引く「道楽」をする少年として有名だったといいます。また、喜一郎少年は写真嫌いであったこともあり、少年時代の写真が2枚しか残されていません。そのうちの1枚が今回、顕彰碑に焼き付けられた卒業アルバムの写真。もう1枚は中学校入学前に妹の愛子さんと収まった写真です。ちなみにこの愛子さんは県一高女の実科をご卒業とのこと。すごい偶然ですね。

喜一郎少年11歳、愛子さん6歳
(『豊田喜一郎氏』)

 このように中学生時代の喜一郎は、一向に目立たぬ存在ではありましたが、父佐吉に似たのか、沈思黙考、一人で手を動かす実直な性格だったことに間違いはありません。そんな彼にとって明倫の生徒層は性に合っていたのかもしれません。『豊田喜一郎氏』の中学生時代の項は、「この性格の中に、『国産自動車が自然的に、運命的に育ちつつあつた』のではないかと思う。」と結ばれています。

まとめ

 明治末から大正にかけての明倫の学窓とそこで学ぶ豊田喜一郎の姿をなんとなくリアリティをもって思い浮かべることはできたでしょうか。当時の明倫中学校は今の明和高校とあまりにかけ離れた学校ではなかったですし、喜一郎少年はその中でも普通の、もとい、少しオタク気質を持った明和生によく見られがちな少年でした。
 今回、そんな豊田喜一郎が明和会によって「顕彰」されるわけです。もちろん、彼は日本の産業界を背負って立つ多大な実績を残した偉人ですから、明和高校としては誇らしいことですし、積極的に鼻にかけていきたいものです。しかし、「顕彰」によってその姿があまりに神々しくなると、現在を生きる明和生たちにとって喜一郎は遠い存在となってしまいます。それでは、せっかくの顕彰碑に刻まれた「生徒の皆さんには、豊田喜一郎氏を範とし、深い学びを通して視野を広げ~」という文言が空虚に響くだけです。そこで本稿ではそんな喜一郎少年のリアルに迫ってみたのでした。
 豊田喜一郎の顕彰が明和生に伝えてくれる裏の意義は、「凡庸でも実直であれ」ということにあるように思います。優秀な仲間に囲まれて、自分の実力を過小評価しがちな明和生ですが、将来どこで華を咲かせるかはわからないものです。
 除幕式当日、大人たちの顕彰の影で、喜一郎少年は苦笑いしているかもしれません。そんな「影」を脳裏に忍ばせながら参列してみると、面白い式になりそうですし、今後、顕彰碑を眺める際にも少し親近感を持つことができるかもしれませんね。

参考文献

  • 愛知県立明和高等学校明和会「明和会会員名簿2016」(2016)

  • 尾崎正久『豊田喜一郎氏』(自研社, 1955)

  • 「明和会」記念誌編集委員会『愛知県立明和高等学校史』(1998)

  • 和田一夫, 由井常彦『豊田喜一郎伝』(トヨタ自動車, 2001)


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