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海辺の祈り

ごつごつとした石を組んだ淵に肘を乗せ、温かな湯に浸かりながら、いつのまにか降り出した雨をぼんやり眺めていた。
露天の温泉に入るのはどのくらいぶりだろう。

そういえば去年の秋も、立て込み続けの仕事に悲鳴を上げそうになり、長野の山奥に逃げるようにして行った。
その時はやむなく仕事を持ち込んでの逃避旅行ではあったが、こじんまりした気持ちの良い木造のお風呂に浸かってくつろいだ。
引き込みの温泉だったが、外の緑を眺めながらの入浴は本当に気持ちが良かった。
そう考えると案外最近だったのか。

今回がその時と違うのは、大きめの仕事の山をいくつか超えて、次の締め切りまで奇跡的に間が空き、仕事のことを考えずに数日を過ごせるという事だ。
いつも何かしら次のことを考えながら過ごしていたのが、急に自由になってふわりと宙に浮いた感じ。いやむしろ、地上に降りて地に足が着いた感じという方が合っているかもしれない。

こんな時間を作らなければ・・・とは前々から思っていた。
アウトプットばかりでは自分自身が枯れてしまう。枯れた自分からは何も良いものが出てこない。
インプット、というかまずインプットできる心の健全さ、余裕を取り戻さなければ。

露天の風呂は海の見える高台にあり、目の前は小さな林に囲まれている。
林には色々な木が植っているようだ。
柔らかそうな黄緑色の細かい葉をたくさん付けた細い枝のもの。深緑色の大きめな葉を茂らせているもの。
その木々に先ほどから雨が降り注いでいる。
鉛色の空から細かく降る雨粒は、時々銀色に光りながら葉を濡らす。
この雨が木々を潤し、山を潤し、川となって生命の源になり、すべての生き物を育むのだな・・・そんなことを考えていると、太古の昔から続いているこの生命の営みの流れの中に自分も置かれているという感動が込み上げてきた。
生かされている。
その何というありがたさ。

「おはようございます」という不意の声に我に帰る。
後から入って来られた方の先客への挨拶だった。
挨拶を返して長湯をしていたことに気づき、ようやく湯から上がった。
身体を拭きながら、先ほどの感動、この感情を以前にも強く感じたことを思い出していた。

あれは確か小学校高学年の頃、当時大きな庭のある日本家屋を借りて家族で住んでいた。
庭の見える板張りの部屋があり、宿題をするために、そこに折りたたみ式の机を持ち出して座っていた。自室の散らかった机に向かう気にならず、宿題はよくそこでしていた事を思い出す。
ノートからふと目の前の庭に目をやった時、母が植えた赤いチューリップが目に入った。
チューリップは、さっき咲きましたというような新鮮な花びらを空に向けている。
そこに陽の光が惜しげなく燦々と降り注いでいる。

その光景を見た途端、なぜか、わーと声を上げて泣きたくなったのだ。
悲しみではない、嬉しいというのでもない、言いようもない感動。
敢えて言葉にするならば、込み上げるようなありがたさ。

子どもだった私にはそれがどういう感情なのか言語化することは難しく、その時誰かに話す事はなかったのだが、ノートの片隅に色鉛筆を何色も使ってその赤いチューリップを描いたことを思い出す。
そしてその強烈な印象は心に深く刻みつけられ、大人になった今も忘れる事はない。
生かされている事の喜び、ありがたさを感じ、全てを育んでいる存在を初めて感じた経験だったことを思う。

「話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」(詩篇19篇3〜4節)

聖書の中の好きな詩篇の一編だ。
言葉として耳に聞こえなくても世界に響いている声がある。

「それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。」(同 6節)

森羅万象、どんなものもこの生かされる生命の中にある。
それはこの詩が詠まれた3000年も昔から、いやそれ以前から変わらず営々と続いている。

今の世界情勢には日々心が痛むことばかり。
人々の争い、憎しみ、党派心、分裂・・・。どこに解決の糸口があるのか、私の乏しい見識ではわからないことだらけで、おろおろと見守る他ない。
せめて信頼できる専門家の意見や歴史を学び、時局を正しく見る目を養う努力はしたいと思う。

それと同時に何よりも、全てを育み、生かそうとしている存在を忘れたくない。
それはどんなに時代が変わり、人々の気持ちが移ろうとも変わる事なく、「生かそう」という生命の営みの中で、全てのものに温かい眼差しを注ぎ続けている。
どうか神様、人々がその暖まりを感じる事ができますように。

遠く水平線の彼方に思いを馳せながら、そんな祈りが湧いてならない。

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