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二人きりの車内で語られた、ストーリーになりきれない人生の断片


生まれてこのかた、居酒屋で偶然隣り合った人と盛り上がった経験がない。できればこのまま経験せずに一生を終えたいと思う。

親しくない人と言葉を交わすのは重労働だ。それが会社の飲み会であれ、親しげな店員さんとの数往復であれ、何を言うのが正解なのかよくわからず、過度にぺらぺら口が滑っては勝手に疲れてしまう。ささやかな緊張と、変な興奮がずっと続く。

だからコロナ禍になって、人から突然話しかけられる機会が減って、ずいぶん快適になった。最近は、「この人と会いたい」というモチベーションを持つ相手としか、約束をしていない。というか、会いたい人との約束ですら、泣く泣く延期を重ねたりしている。だから、偶然出会った相手とじっくり会話する機会は、ほとんどないのだ。そのおかげで、精神的な負担が少ない。とてもうれしい。


しかし、どんどん自分の世界が狭くなっている感覚は、たしかにある。別に、世界なんて狭くてもいいと思っているんだけど、でもちょっぴり、寂しさと窮屈さを感じている。これだけ会話したくないと言っておいて超自分勝手なんですが。いや、あなたが私との会話に時間を費やしたくないことくらいわかっているんですが。それでも、私は、あなたと言葉を交わしたい。もし、面倒な緊張とか愛想笑いとか、そういうのを全部すっ飛ばして、気負いせずに、それが叶うなら。


そんな、超わがままな欲望が、ことごとく叶っていた時期がある。

20代半ばからの数年間。私は、全国津々浦々の工場をひたすら訪問する仕事をしていた。それは、かっこいい取材のような仕事ではなく、単に、工場の業務内容をチェックをするような仕事だった。週に数日、新幹線や電車を乗り継いで、その日担当する工場に向かう。同じ場所に繰り返し行くことはほぼ無かったので、毎日のように、初めましてのあいさつを繰り返した。私にとって、とても苦痛なはずであることの連続だ。

まず、地方の工場に向かうと、担当者の方が、ターミナル駅まで迎えに来て下さることが多い。朝早く、ぎこちない挨拶を交わして、お礼を言って、車に乗り込む。片道1時間以上かかることもあったし、途中移動も含めれば3時間以上、車の中で二人きりということもあった。まずは、天気のことを話す。次に、今日の新幹線の混み具合。それから、その土地のはなし。あとは仕事の段取りを確認したら、もう話すことはなくなる。最近はもう、テレビ番組やニュースだって、共通の話題になりやしない。そうして無言の時間が訪れて、まあこのまま到着まで沈黙だって別にいいんだよなと思いながらも、どちらからともなく、ぽつぽつと話がつづく。


“あ、そこ、いま通ったところ、僕の通ってた高校なんですよ。卒業してから、いまの工場で働いているんです”
“うちの地元では、実は、漁師はだいたい金持ちで。イメージと違います?  給料は年払いだし、夜中から仕事が始まるし、ほんと大変そうなんだけどね。でもいいよねえ”
“いやー、大阪本社に赴任していた日々が忘れられないんすよ。カラオケで毎日、ほら、EXILEグループのあの曲、歌ってたの。Bメロが最高だと思いません?ちょっと流してもいい?”
“住んでいた家は、津波で全部流されちゃって。みんな都会に行っちゃうから、結婚もなかなかね。でも、この町を離れることは考えてないなぁ。“
“離婚した妻に、お願いされてさ、いま彼女が住むための家を建てているんだよ。ちょっと途中だから見ていく?”


人は、共通の話題がないと、自分自身のことを話すしかないんだろうか。初めて会った人と、突然お互いのことをひたすら話した、あの時間はなんだったんだろう。帰りの新幹線で、どっと疲れて動けなくなっても、その会話の最中は、妙な緊張と興奮が心地よかった。こんな時間を過ごせて、なんてありがたいことだろうと思った。

それは、プライベートで誰かと会話するよりも、ずっと気楽な時間だった。私たちは、別に会いたくて会ってるんじゃない。話したくて話しているんじゃない。その前提が、良かったのだろうと思う。お互いに、これが「仕事の移動時間」で、「会社に所属する人間」として共に過ごしていて、「一緒に移動しなければいけない」と了解している。失礼があってはいけないけれど、関係を発展させる必要はない。共通の知人はおらず、今日が終わったら、きっと二度と会うことはないだろう。

そういう要素が重なり合って、普段はわざわざ話さないようなはなしを交換し合えたような気がする。この日、この時間のことだけを考えて、この持て余した数時間をやり過ごす。そんな言い訳を一緒に振りかざして。

普段の私は、見知らぬ誰かとの時間を、ただ楽しむことが、本当に苦手だ。仲良くならなければならない、と必死になる。この時間を、なんらかの成果に結びつけなければいけない。そう思い込んでいる。ほら、たとえば、ゆきずりの恋なんて、もってのほかだ。コストパフォーマンス悪いし、発展性もないし。明日になれば何も残らないのに、多方面のリスクとホテル代はバカにならない。

同じように、会話ひとつにも、無駄だとか、発展しないとか、投資効率みたいなものを、ついつい気にしてしまう。目の前の、その場限りの相手と会話をするのが億劫だなあと思う背景には、単に緊張するということのほかに、「どうせ頑張って会話しても何の得にもならない」というような価値観が潜んでいることを否定できないのだ。ああ本当に失礼きわまりないですね。恥ずかしいね。


それでも、あの、車の移動中に交わした会話を、楽しかったなあと思う。あの数時間だけの、忘れても困らないのに、けして失いたくない会話の連続。


さて、今回しみじみと昔のことを思い出したのには、理由がある。何を隠そう、自分が編集長を務めた本が完成し、それを改めて一から読んでいたのが、そのきっかけである。

すべての原稿が完成し、入稿し、販売開始するまで、私は客観的に、この本を楽しむことができなかった。やっと、自分の手を離れたいま、一人の読者のような気持ちで、この本をめくることができるようになった。そしてページを繰りながら、あの数年間のことを思い出したのだ。ここに収録されたインタビューは、車中で交わした会話にとても似ている。

本のタイトルは「インターネットの外側で拾いあつめた言葉たち 二〇〇〇-二〇二〇」。この本には、「あなたは2000年から2020年まで、どんな日々を送っていましたか」というインタビューを、17本収録している。著名人ではない「普通の人」が、この20年間をどう生きていたか。編集長だと、えらそうにのたまわっているけれど、所属しているもぐら会のメンバーと作り上げた、執筆者と語り手による一冊だ。

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17人の語りが文字になって、紙に印刷されてみて、つくづく思う。私たちの行動で、明確に「なんらかの成果に結びついている」ものなんて、ほとんどない。今日の行動が、明日とどうつながっているかなんて、誰にもわからない。本人にもわからない。過ぎ去ってみて、やっと「これとこれがつながっていたのかな」と思える程度で、それすら推測にとどまるのだ。

そして、明日にどうつながろうと、つながってなかろうと、今日の連続そのものが、私たちの人生そのもので、それだけでもう十分だなぁと、そう思う。


落ち着いて、誰かの人生の履歴を、ほんの一部でも、時間をかけて聞かせてもらう。どんなに仲のいい友人でも、そんな機会はなかなかないだろう。私たちは、大義名分を掲げないと、じっくり誰かの話を聞くことができないのかもしれない。「仕事で仕方なく会話しないといけないから」とか、「こういう本を作るから」とか。だからこそ、そんな口実を見つけたら、あとはもう、そこに飛びつくしかない。


残念ながら、この本を読んだからといって、明日から自信に満ちた人間になれることはないだろう。営業成績がトップになって大モテ、なんてこともありえない。

しかし、自分の予測しない形で、今日の連続の末に現在がある、そのことは実感してもらえるんじゃないかと思う。そのつながりを上手く操縦できないことは、けして、無力だとか弱いとか、そういうことではない。むしろ、それを認めて諦めて、それでも毎日を生きることは、弱さより強さに近いものではないか。この本を読み終わったいま、そんなことを考えている。




*「インターネットの外側で拾いあつめた言葉たち 二〇〇〇-二〇二〇」*


*こちらで序章を試し読みできます*


*その他こんなことを書いています*


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