妊婦さんに席を譲りたくなかった私と、姑たちのありがたい知恵

先日、定期健診を受けようと産婦人科に行ってきた。息子を出産する前、不妊治療に通っていたクリニックだ。

足を踏み入れると、どうしても当時のことを思い出す。あのころは、世の中の子連れママも妊婦さんも、みんなまとめて嫌いだった。


不妊治療は沼が深い。どれだけ努力しても、妊娠できる保証はどこにもない。あの人たちには子供がいて、私には子供がいない。それがすべてで、一人ひとりの人格や気持ちなんて、どうでもよかったような気がする。

大変そうなお母さんを見かけても「いいよね子供がいて」という感想しか出てこなくて、そんな自分の性格の悪さにうんざりしていた。



そんなとき、ある集落で昔から受け継がれる「講」の存在を知った。日本の村社会には、昔からあらゆる「講」があったという。お題目を唱える題目講や、お金を融通し合う頼母子講など、地域のさまざまな集まりや連帯をそう呼ぶ。その歴史は古く、戦国時代よりも前から、形を変えつつ受け継がれてきたそうだ。

そして、私がそのとき知ったのは、「姑が嫁の悪口を言う講」だった。ある集落では、女性は60歳を過ぎると、その講に参加する決まりらしい。小さなお堂にこもって、大体10人ほどで持ち寄ったごはんを食べながら、嫁の悪口を言う。そんな慣習が昔から続いてきたそうだ。

なかなか恐ろしい…のかと思いきや、どうやら違う。「この講で悪口を言い合うことで、嫁に面と向かって悪口を言わなくて済む」らしい。その悪口は、他人には言わない掟なので、嫁本人に届くことはない。その姑たちも「自分たちが嫁だったころ、姑による悪口を、他人から聞かされたことはなかった」そうなのだ。


なかなかよくできている。もしこれが、嫁の悪口を言うLINEグループや、嫁の悪口を言う匿名掲示板だったら、こうはいかないだろう。そもそも参加する時点で後ろめたいし、あとで読み返したら嫌な気分になりそうだし、嫁にバレたら終わりだ。つらすぎる。

でもこの講なら、60歳になったから参加しているだけだし、話したことが文字に残るわけでもない。さらに「お堂にこもる」という、物理的にも時間的にも切り離されているのがいいじゃないか。



まさに、心穏やかに暮らすための知恵だ。私も、ぜひともこの講に参加したい。

しかし残念ながら、私は首都圏の賃貸アパートに住んでいて、そもそも60歳にもなっていない。呼んでもらえる可能性は低そうだ。


仕方がないので、ひとりでやることにした。
まず、「外部に漏らさない」「文字にしない」というルールを徹底する。あとはひとりで、妊婦さんや子連れママに遭遇したときの気持ちを反芻するだけだ。あーいやだ、うんざりだ、もっとこうならいいのに。

ここで重要なのは「妊婦さんは何も悪くない」とか「子連れママも大変」とかいう真実に一旦フタをすることだ。
そんなことは十分わかっている。彼女たちに悪い部分は一切ないし、私の心情を気遣ってほしいという気持ちは一ミリもない。何も気にせず、のびのびと子供を産んで育ててほしい。そう思うからこそ自分の性格の悪さにうんざりしているので、この間だけは忘れることにした。



この試みによって、毎日が少しだけ楽になった。

ひとりで考えてるだけじゃん!と言われそうだが、ちょっと違う。
まず、「外部に漏らさない」というルールがよかった。まあひとりなので、誰にも言わないということになるんだけれど、「自分のこういう部分は誰にも見せない」と決めてしまうと、案外気持ちは楽になるものだった。
誰かに少しだけわかってほしくて、中途半端に話して全然共有できずに後悔する、という危険性がなくなる。いい人ぶる必要も無い。

「文字にしない」というルールもよかった。弱っているときに、自分の嫌な部分を文字にして何度も目にするのはしんどかった。

さらに具体的な効果として、妊婦さんに席を譲るのが楽になった。別に無理やり「妊婦さん頑張れ!!」みたいな気持ちになる必要はないのだ。妊婦さんのリスクや体調を考えたら、席を譲るべきなのは疑う余地もない。だから、軽くにこりとして席を譲る。それだけのことだ。

実際に自分が妊娠してから気づいたのだが、無表情で席を譲ってくれるサラリーマンはたくさんいる。数分立っているだけでも苦しい中、笑いも睨みもせず静かに席を譲ってくれる人たちに、私は何度も救われた。



結局、そんな日々が、不妊治療を終えるまでつづいた。

自分の嫌な部分を、否定も肯定もせず、好きにもなろうとせず、ただそのまま嫌だなぁと思いながら取り扱う。それは楽なことではなかったし、根本的な解決にもならなかった。

でも、あのときは、こうするしかなかったように思う。誰かにこの気持ちを打ち明けていたら、もっと楽になっていたかもしれないけれど、もっと苦しくなっていたかもしれない。そこに踏み出してみる気力や体力はなかった。変にいい人ぶって自分の気持ちに嘘をついたりするよりも、誰にも言わないほうがずっといい、そんな時期もあるんだと知った。 


いつかまた、同じように苦しいときがやってくるかもしれない。そのときはまた、自分の気持ちを上手く取り扱っていけるだろうか。それとも誰かに話を聞いてもらおうとするんだろうか。
そのときどこかで、姑たちの講が残っていたら、ぜひ仲間に入れてほしい。

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