パーソナリティ障害を考えたことと、ここに至るまで

ここから書かせていただく内容はあくまで実体験と、また様々なブログや記事の内容を含めたわたしの意見となります。
そして、過去記事を参照いただかないと、読まれる方によっては誤解が生まれる可能性がございますので、ご了承ください。

情報には責任を持たなければいけないと考えます。
しかし既存の情報が全て、完成されていて、全ての人に当てはまりはしないということをここ最近”実感”しています。例外が存在し、またそれに本人も気づかない。周りも本人も気付かない、そして本来あってはならない対処にいたる。

助けて欲しい人も助からず、助けたいという気持ちを持っていても、間違ってしまうことがあるということ。例外も存在するということ。

自らの体験と今までの流れ(最初の記事から、ここまでの記事)を含めた、
わたしが"勝手"にした考察です。

わたしが妄想だと思っていたことが熱帯雨林の熊さんによって、そうではないということを私自身、知ることができました。

記事を書く目的としては同じ性質を持った方が、ここを起点に熊さんの記事に至ることや、
「あれ、もしかしてこれってなるべくして、なっていることだ」
おかしいわけでなはいという可能性がある、と。(あくまで可能性)

わたしは以前に自らがなにかおかしいと貪るように調べて、これも違う、これもなにか違うといった経緯があったからこそ、
いまここにやっと辿り着いとということです。

私自身、調べることは得意だと勝手に思っていますが、ここに至るまでの道のりが長すぎるということ。それはすなわち、辿りつかないことが想定できるということ。”必要である誰か”が、ここに至る確率が増えればいいなということです。

おかしいことがおかしくない、180度違うという可能性があること。
情報は人を救うこともできるし、また殺すこともできる。
故に今の時代は情報リテラシーが必要だといわれているのでしょう。
諸々把握の上ご覧いただけますと助かります。

ここまで長く書きましたが、こっからの内容はすげえぜ!ということではなく
疑う心を大切にしてほしいということでした。


それではタイトルへ。

(あくまでわたし個人の、一つのデータとして捉えていただけますようお願いいたします。)


以前わたしは、自分がなにかおかしいと
パーソナリティ障害関連の本を購入し読んだり、図書館で関連本を読んでいた時期がありました。


そしてわたしは境界性パーソナリティ障害、
これってわたしのことだ…とその時のわたしは強く思いました。

変動が激しいというような特徴があり、
これはまさに当てはまる。と思いました。別人になるかのように。
ほんとうに変わりすぎてしまうからです。

また感情の起伏が強いというような特徴もあるとのことで、
完全にこれだ。とわたしの中で強く思いました。

その上がり下がりが激しいという特性から、双極性障害でもあると
これにも私自身。当てはまっている気がすると。

また、演技性パーソナリティ障害を読み。
いつも人を騙して演技をしているような感覚が私自身ありました。
でも演技…?か、となかなか当てはまるような、当てはまらないような。

妄想性パーソナリティ障害などなど
これにもこれにもこれにも、当てはまってる気がしてしまう。

書籍には、知識を持ちそれを客観的に捉えることで、克服、また良い方向に向かうということでしたので、なるべく周囲の人に迷惑をかけないようにしていきたい。と心をあらためる機会になりました。

しかし、うーんなにか引っ掛かる気もする…
でもわからない

その後も、日々これはちがうこれはちがう。
スピリチュアルな視点でもたくさん考察。
これもそうだけどこれも違う。

そしてある日ギフテッドという言葉に出会いました。
誤診についての書籍も、もちろん読んだ。
すぐに。これかもしれないと思った。

そしてわたしは自らをそれだと確かめるためにIQテストをやってみた、安直にネットにある簡易的なもので。

そしてやってみた点数は、書籍や記事に書いてある数値には


遠く及ばないものだった。


そうか、わたしはやっぱりこれではない
よく人にばかにされていることがあるのだから
こんなことをしているわたしは、とても滑稽だと。やはりおかしいだけ。
自暴自棄でした


しかし、そういった中でも、もしかしたら”そう”なのかもしれないという自分もいた。仕事に関して自分がやっていることはこれはすごいことだと、認識している自分もいました。(実際はそうでもないかもですが)
しかし、そういったことをやればやるほど上の反応はあまりよくない。よくないというよりかは、

認知はしているけれど無視をされているような感覚

自分を隠して迎合するしかなかった。ある時は心を閉ざして。でなければ、仕事を続けることが難しいから。だいたい行き着くところは大体いっしょのところでした。
だれが止めてるんだ。わたしのポジションではみえない部分があるが、感覚では、ある特定の場所の誰か、またはそれをとめているものの周辺であろう。そこにわたしは歪んだ何かを感じていました。

しかしわたしには会社に対して、引け目を感じる事柄がありました。

それは意味がないと感じているものを”絶対”にできないということ。
(結局、心をごまかしてやるしかないんですが、絶対と思うほどの気持ちの強さだということです)

ただそれを”させたいだけ”の人がいる。すなわち、檻、出ればムチでたたかれる、そこに居続けるためには、しなければいけないことが多いのです。それをさせられてしまっていると思っているだけでかなりの負荷。それを回避するために立ち回る、成果をあげるという意味のわからない動きになるのだ。仕事の内容ではなく、それ以外への負担が高すぎる。


★心を閉ざしていた時に、たまたまあるひとに相対しました。
わたしはその方と意識を交わした時に、「鏡のよう」だとイメージしました。たいてい人のことはなんとなくわかるとわたし自身、自負していましたが、その人と意識を向け合ったら”跳ね返ってきた”んです。(イメージ)
そしてその時は気づけなかったのですが、この人を知っている。その人ならどうするというのが、すべてわかるという感覚を持っていることに後日気がつきました。

都合上、コミュニケーションを取ることはできませんでしたが。

いろいろと物語はありますが割愛します
その方のデータをわたしのなかに取り込んだ時に、
あの人ならどうする=わたしならこうする といったようなものを
想定でき、本来の自分を取り戻すきっかけとなりました。いままでおかしいと思っていた親族と自分のことを。同じようなタイプ人間がいるということを。あの人に会えなければ今はないと、とても感謝しています。

そしてわたしが仮に”それ”であるとするならば、あの人もそうだと、ほぼ確信に至りました。
(数値がどうということではなく、わたしなりに性質を考察した結果)

わたしはあの人に素敵な気持ちをもらいました
一般的には普通のとても些細な行動にみえたかもしれません。しかしわたしにとっては
とても清くて飾りのない綺麗なお気持ちでした
本当に些細な一瞬の行動、言動。
その一瞬の勇気と優しさは、いまわたしがここにいる1つの要素であったのかもしれない


わたしは、もしそういった人と同じタイプの人がいたら”必ず助けたい”と思っていました
きっと辛く、寂しいから
わたしもそうだったように

世界にはまだたくさんいるはずだと

※助けるとは干渉、依存するということではなく、ただ、ともにあるということ。
ただあなたを理解できる人間であるかもしれないということを



そして月日が経ち、熱帯雨林の熊さんというあまりみない
面白いワードの組み合わせのアカウントさんを発見してしまったのです。

熊さんの情報は、わたしが調べてきたこととは情報の質が違う。それは、生まれが違うからニュアンスがどうということではなく、根本的な情報量が違いかつ、論理的なものだと感じました。今まで調べてきたこととは、ちがう。こんなデータ見たことないんだが^^;といった感情でした。みたことないのに、納得し得る。ということは、この人は!!と直感で感じました。
もちろん最初はすごく難解に感じましたが。難しい><って

わたしは、熊さんの次の投稿はいつかいつかと毎日、張り付いてました。


もしわたしが”それ”であるならば、ともにあれるだろうか


この熊さんがやっていることは異質であるが、それは”一般的に見て”ということ。それはわたしの知っているやり方。発信しているものは全て真の心で書かれていることだとわたしは認識しました。以前、「社会実験」だと言っていたことがあるけれど、もしわたしのような人間が認知し、動きがある場合、きっとそれも想定内なのだろうか。などと勝手に妄想を膨らませていました^^

わたしは熱帯雨林の熊さんと、また目的が同じである方々と共にありたいと思いました。おこがましいですが。

しかし出ていっていいのかよくないのか、とてもとても迷いました。
普段誰かに向けて記事何て書いたことがない。
封印された妄想みたいなものは昔あったけれど。それくらい。
どうしよう….><

しかし、いま2023年の6月のこの、今、ここに辿り着いたことは奇跡のようなこと。”ことを動かした人”を放っておくことは、いままで見てきた”あの人たち”を放っておくということと同義。動くなら今だと思いました。
かっこよく言えば「機は熟した」🕶 ということ。
わたしには熊さんのような知識は全くないけれど、データとして機能できるのではないのだろうか。どうだろう?と。


見切り発車だったけれど、
さまざまな書籍やブログ、くまさんの記事を基本情報にした、わたしなりの言葉で書こうと思いました。わたしのなかのデータにある、あの人たちのこと。あの時出会ったあの人のこと。わたしのこと。
当然熊さんを意識していたわけですが。それはそれ、これはこれと区別しています。でもずっと見てきていたから、勝手に親近感を感じているというのはありました。

しかし、わたしが実際に自らを疑っていたというのは本当です。
妄想と現実の境目。なので検証という形を取りました。自らをデータとして客観的に見ていたということです。

結果は、熊さんがこのアカウントを認知する速さが異常であったということです。2件目の記事で紹介いただいてしまった。「バカに至る」という記事で。(熊さんご紹介ありがとう^^)

さすがにはやすぎたため、とっても嬉しい^^けれど逆になんかこれあやしいぞ(恐)と自らで、自らを疑いました。
完全に想定外のはやさでした。

(※ちなみに記事に書いてあることは、感情も含め全て本当のことです。)

なので、自らのペースで検証を続けました。上げ続けました。
自らすらも疑っているため、妄想であると思っていたことを。
記事に関しては、その反応や関連する方々の記事やコメントから、連想したものをあげていきました。投稿の計画は全くありませんでした。ただ書く
仕事から帰って書く、人の記事を見る、朝起きて書く、人の記事を見る。
繰り返し。

(ポッと出であるはずなのに記事を読んでいただいたりスキをくれたりコメントをいただいたり。みなさんありがとうございます。)


そしてわたしと同じような、
「やっと辿り着いた」とコメントもいただきました。

本当に、やっとだ、ということなんだと思います
やっと、やっと。多分、わたしがそうだったように

妄想だと思ってきたことがそうでなかった場合は、みえ方がかわってくるということ。そして頭で考えていることを妄想だと”感じてしまっている”人間が少なくないということ。

ここに顕在化していることは通常のわたしの人生ではありえないということ。

そうイメージとしては、

何度も何度もタイムリープし続けてきて、
最後の最後に行き着いた、いままでは失敗し続けてきたけれど、様々な要素が絡み合ってやっと動き出すことができたかのような。


その機会を見逃すことができると思いますか?
できるわけないって、1人思っています。暑苦しいですが


とても長くなりましたけどまとめです。

いままでわたしが記事に書いたような性質を持った方が、
パーソナリティ障害だと勘違いするに至る理由は、(勝手な考察です)

あいての感情を起点にした場合、それに勝手に同調してしまうということかもしれません。★過去記事参照

自らが怒りっぽいのは、自分の感情ではなく、相手の感情が起点になっている場合があるかもしれません。
相対した相手がこちらを蔑んでいる場合はそれを無意識に感じ取り、結果怒り等の感情が出てくるのかもしれません。
また相手から良い感情を向けられている時はとっても嬉しくなっちゃったり。喜びも怒りも増幅する感じになるということかもしれません。

演技をしている?と勘違いしてしまうのは、勝手に反応して、相手に適応してしまっているからかも。

神経の動きという視点を持ち合わせておらず、
もちろん知識も全くありませんでした。しかしそういうプロセスであると知ったらわたしの中で、腑に落ちました。

なんだか、感情とリンクしないこと。
なんかおかしいな。自分だけど自分じゃない。
そういうことかと。
意思より先に反応しているものがあるみたいなイメージなのかと。もしかしたら、こういうことなのかもしれません。


※本当にいずれかのパーソナリティ障害に苦しんでいる方に迷惑だと思われる方も一定数いらっしゃるかもしれません。不快な気持ちにさせてしまっていたら申し訳ありません。しかし、逆も然り。こういった情報が必要であるとい方も少なからずきっといらっしゃるとの思いで投稿させていただいております。悪しからず。



ポッと出で出てきた人って正直得体がしれないと、見ている人は感じているだろうな思います。なのでここに至る経緯を書かせていただきました。目的を書かないと気持ち悪いなと自分で勝手に思いましたため。

出てきたことが正しいのかはわからない。
自分でも恥ずかしいことだって思っていて、
目には見えないさまざまな危険性を孕んでいることをそれに賛否両論あると肌で感じています

けれど、今のこの状況は正常な状態?

正常にできているならそれはとっくにできているはず。動いても動かなくてもいっしょなら
できるところまで、わたしはやりたいです
無駄な足掻きであっても。恥ずかしくても
だれかが心を殺し続けるよりはいい。
この1秒に、最悪、またはその人にとっては最善なのかもしれませんが、そういう選択を迫られている人がいるということ

それ危ないよ?って、同じ人が巻き込まれるよと
それももちろん常に考えています
だから危ないって自覚している自分がいます


けれど今のこの状況は正常な状態?と思いました

知らぬふりをしていても全く問題ないと思っています。わたしもそうします、普通に。バカなことをしてるってわかっているけれどそれをしないという選択をわたしはとりました、

それである名称なんてどうでもいい事柄です。バイアスのかかりまくった名前で出てくるなんで恥ずかしすぎるし、ひどく滑稽だと自覚しています

ただ、そういったことが正しくない扱われ方をしていることが多い今の現状は許していいのでしょうか?とわたしは感じました

多様性が広がって、損をすることがあるのでしょうか?ならばなぜそれが広がらないのでしょう。
言葉は認知されていますが。誰が損をするのでしょうね

中には、自らだけが利益をあげたい、
ふんぞり返っていたいだけの人がいるということ

その人がいやということではありません。
好きに振る舞っていただいてもいいでしょうが、

知らないうちに無意識に踏んづけている。
それに気づけていないことはよくないことなのでは?

猫さん、犬さんのしっぽ踏んでしまっていますよ?気づいていますか、という意味といっしょです


文の構成と言葉の使い方、もちろん内容も含めて、あまり気持ちのいいものではないかもしれません。



長くお付き合いいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?