祖母について

父方の祖母が亡くなった。

葬儀は遺言により無しとのことなので、本日火葬、納骨を済ませて帰路の途中でこれを書いている。

別に特別な悲劇ではなく、92歳だったので大往生と言っていいと思う。
世界では毎日多くの命が生まれては消えている訳で、祖母の死もそのひとつというだけの話。

ただひとつ、少し胸を撃たれる出来事がありそれを記したくなった。

どうやら祖母が残したと思しき「詩」のようなものが見つかったのだ。

母や伯母のリアクションは薄く、父や伯父に至っては見向きもしていなかったが、俺の心には強く残るものであった。

父を長男、伯父を次男とした2人兄弟なのだが、出産した直後に亡くなった三男がいる。「詩」はその三男について書かれたものだったのだ。

死産(だったかどうかはわからないが便宜上そう表現する)した子がいた事は話として聞いていたが、そのことについてどうだったのか?などと祖母に聞く機会など無かった。

しかし考えてみれば当たり前の話で、子を亡くして悲しまない親など存在するはずがなく、その「詩」には三男に対する想いがいっぱいに書かれていた。

曰く、
生まれてから真っ白な服を着て泣く姿をずっと楽しみにしていた。
昭和基地が開設された年だったので、君も南極でペンギンと戯れる姿を想像していた。
将来は南極探検隊か、医者になってほしいと願っていた。
周囲はお気の毒でした、と慰めてくれるが、私は親の顔も見ずに逝った君が可哀相でたまらない。

俺はそれを見て泣きそうになった。
俺も小さな娘がおり、祖母のその想いに強く共感したからだ。
晩年は統合失調症や認知症を患い、もう家族のこともわからない、と言われていた祖母が確かに残した想いを見たからだ。

祖母にとってはひ孫にあたる俺の娘を見せてあげられなかった心残りがずっとあった。
そんな中で祖母が「親」として残した想いに触れられたことが、少しだけ嬉しかった。
ちゃんと会えていれば、いっぱい喜んでくれただろうな。
いつか娘と一緒に、祖母がいた街を歩いてみたくなった。






しかし思うところがある。
あの「詩」は祖母の子に対する想いそのものであり、父にも同様に注がれていたはずのものなのだが、
それに対してノーリアクションとは、果たしてどういうことなのか。
感受性というものは消え失せてしまったのだろうか。

内心を図ることは出来ないが、父は険しい表情でコロナとウクライナ侵攻の裏にある何かについて語っていた。
俺はノーリアクションを貫いた。

おわり。

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