「発信する」意義(橘エリー)
私は、文字を紡ぐことが好きだ。
・小学生の頃「お話をつくってみよう」みたいな国語の時間に、
原稿用紙10枚の大作?を書いたり。
・趣向を変えて執筆した'書きかけの卒業論文'を
「これはむしろエッセイだね」とゼミ先生に言わせたり。
→知人友人に配り歩いた(自己顕示欲のかたまり)
・なんとなくお話を書いてみたり(完結はしない)
「うつ病の療養」と銘打って、noteを毎日に近い頻度で公開できたら、と思っている。
そのための題材が思いつかないことがさみしい。
ほぼ毎日公開すること(つまり「ほぼ毎日記事を書く」こと)は、楽しい。
私に向いてると思う。たぶん、きっとね。
少なくとも「苦ではない」。題材が見つかれば、の話だが。
うつ病療養中の民にとって「ノルマを作るのはおすすめしない」らしい。
だからあくまでも「毎日に近い頻度」で、と思っている。
私のnoteを開いてくださる方へ(最後まで目を通している、という仮定のもと)
「読む人になにも影響を与えないといい」と思いながら、noteを日々公開している。
『読んでも読まなくても変わらないもの』であることが理想だ。
たまたま目にあたったから開いてみるか、くらいの思いでアクセスされるだろうと思っている。
橘エリーと出会った「きっかけ」は、人によりさまざま。
現実世界の橘エリーからnoteのURLを聞いた人もいるし、noteで橘エリーと出会った方もいるだろうし、Twitterから知った方もいるだろうね。
その方々に、少しでもいい、「無意味な時間」を提供できたら。
できるだけ、「目で文字を追うだけ、中身は頭に入ってこない」時間を提供したい。
私のnoteを眺める時間を、脳の休み時間としてもらえたら。
「人の人生に影響を与えない」ために
人生の目標。いてもいなくても変わらない存在、それが理想。
「必要」とされたくない。私は代替可能な存在でありたい。
RPGにありがちな「村人A」にすらなりたくない。
私は、「その他大勢のうちの1人」でいたい。
誰からも必要とされたくない、のに。
わっこさん(恋人)だけは、いてくれないと生きていけないんだよね。
愛されているのを利用している。申し訳ないな
私は自分の存在に重きを置いていない。置けるわけがない。
このnoteは、だれからも読まれなくていい。
それでも私が日々公開しているのは、ほかにやることがないから。
パソコン(スマホ)をいじっているほうが、気が紛れる。
ただ最近はいじる理由がない…
いつもマイナスなことを言って(書いて)いても、ただでさえ少ないだろう読み手が減るだろう。読み手がほしいわけではないが、張り合いがない。
だからといって「死ぬ」ことはできずにいる・・・
難しいね。
私は「能動的に生きる」ことができない代わりに、「noteを公開し」ていこうと思う。
できるだけ毎日更新していけたら。
いつ、良くなるのか、わからない。
いつ、死ねるのか、わからない。
その辺りの動向(逡巡)も併せて、
noteに記録していけたら
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