肢体不自由者の「暮らし」#1

身体障害(肢体不自由)の 橘エリー と申します。
肢体不自由者(肢体不自由児)からしたら「あたりまえ」なんだけど、
健常者と呼ばれることが多い方々にとっては「知らないこと」もあるだろうと思い、筆をとった次第です。

あくまで一個人「橘エリーの場合」です。
私は「中途障害(人生の途中で障害を得た)者」です。先天性障害(生まれた頃から障害がある)の方とは考え方が違う可能性があります。

 ここから「敬体(~です、~ます)」ではなく、「常体(~だ、~である)」に戻しますね。その方が楽だから。



「バリアフリー」について

  • スロープやエレベーター、点字ブロック、介助犬OK表示など、
    もろもろの「移動に難がある人たちを支える」仕組みは「あったほうがいい」むしろ「あって当然」と思う。先人が勝ち取ってくださったものばかりだ。現在もあるこれらを当然のようにありがたく使っていきたい。

ありがたく、しかし「当然のように」使っていきたい。
社会の側が用意しているこれらを、有効に使いたい。
「個人の努力」に任せようとせず、社会の側が歩み寄ってくれる。障害を「自分ごと」として捉えることが難しいだろう側から歩み寄ろうとする姿勢、私は好き。嬉しい。

「知らないから仕方ない」のだろうが、世の健常者さん方に伝えたいことがある。「知らないから仕方がない」のは理解している。
「知ろうとしてください」と迫るのは、捉えようによっては’ただの暴力’だということもわかっている。わかっているけど。
(義務教育で、保健・医療・福祉について、教わっておきたいね)
「エレベーターを使うな」なんて言わないから、せめてボタンや扉から離れて待ってほしい。「すいません、場所空けてください」と言われないと場所を空けないのか?独り占めしたいのか、そうかそうか…
  最初から場所を空けてあれば、お互いに気持ちよく過ごせるだろうに


いまだに、見られる人たち全員に値踏みされているような気がするのは、
私だけだろうか。
私の心が貧しいから、だろうか…


映画『抱きしめたい』(原作:「記憶障害の花嫁」)のつかささんは
「少しくらい不便なほうがいい」と仰っていた。
「(完璧なバリアフリーだったら)人のあたたかさを感じれなくなるでしょ」と。

私は、完璧なバリアフリーでもいいと思う。
「誰かと出かける」ことを強要されたくない。

強要はしていないかもしれないけど、
「身体障害者が一人で出かけることを想定していない」社会は、どことなくさみしい。

「一人で出かける」自由は? 気ままに生きる自由は?
専属の(専属でなくてもいけど)サポーターがいないとだめですか?


私は社会へ出ていくよ。1人でも。道に迷ってでも。
障害者割引なんていらない。スロープを使わずに済む公共交通機関があればいいのに。


私が迷子になる社会。それが理想だ。

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