「自信」とか「自尊心」とか

『自分自身のことを'大切な存在'だと想えない人』にとって、
「自信もちなよ」「自尊心が大事だよ」などの言葉は響かない。




だって、「自分には価値がない」から。
自分を大切なものだと思う「きっかけ」がなかったから。

『幼少期、大切にされた経験』に乏しいと、
『自分は大切に想われなくてもよい』存在なんだ、と学習するのだと思う。
自分の思いを尊重してもらえなかったり、尊重どころか「思いを表出する機会」さえ十分に与えられなかったりする経験をした(重ねた)人は、かもしれない。


「大切に想われなくてよい」という思いは、
「自分は大切に想われるべきではないのかもしれない」から少しずつ
「私は’人から大切に思われていい範囲’にいないんだ」に変わってゆく。


「そんなことないよ。あなたはいていいの」
「いて'も'いい、の間違いでしょう?それなら、いなくてもいいじゃない。いないほうがいいんじゃない?」 「そうじゃなくって…」

…はあ。なんでわかんないかなあ、んー…。
「ごっごめん。」ごめん、じゃなくて。私が伝えたいこと、伝わってないでしょう?


──伝わるわけ、ないよ。
ずっと「自分がいなければ」で生きてきた。
それはもう、その考え方はもう、変えられないんだよ。
変えられないのは、決して「私のせい」じゃないと思うんだ。

ううん、こういう考え方になったことは自分に責任があるかもしれない。
でも、そうならざるを得なかった発達期があった。
  だから私は「自分の責任ではない」と言う。
真っ当な発達期を過ごさせてくれれば、私はもう少し「いい子」に育った、かもしれない。


義務教育が終わる頃から、「性格を変える」ことは難しくなってくる。
難しいだけで「できなくはない」けど、「熱いうちに打たなかった鉄」は折れやすい。凹みやすい。
場合によっては、精神面に影響がでることもあるだろう。

「人当たりがいい人」になろうとすることは素敵なことだ。
でも「人当たりがいい人になろうとする」ことは義務じゃない。
難しいなら変わらなくていい。大変なら、変わろうとしなくていい。
「変わりたいな」と思うだけで、人は少しずつ変わっていくことができる。
すぐに成果は見えないけれど、着実に変わっていける。


それは、私が保証する。




私はたぶん、生前(交通事故以前)とは性格が異なる。
生活様式からなにから変わらざるをえなかったことが大きいね。

小4だったかな?国語の教科書に『くらしの中の和と洋』という説明文があった。私あれ大好き。

座布団さえあれば、正座3時間はいけた。
床からの立ち上がりも、コップ類を持って移動することも、普通にできたんだ。

(交通量に反比例して大きめの)交通事故を経て、
意識不明時から始められたリハビリテーションや検査、訓練などを経て、
不完全ながら一人暮らしを始め、周りの人たちに助けられながら、
10年ほど生きてきた。今も生きてる。たぶんこの先も生きていく。

でも私は「あの事故で死ねなかった」ことをいつまでも悔やむし、
自分の生命力の強さ、生活力は低いくせに生存力はあるんだよなあ…って
いつまでも思う。


献血はできない。臓器提供はどうなんだろうね。
私の臓器は、私を生かすことで精いっぱいなのかな
私から切り離しても、私の臓器はうまくやっていけるかな?
  そもそも、臓器提供はどこに申し出るんだろうか(ただの不勉強)


「自分の価値を認識できない」から、
「自分自身を提供する」ことで、
少しでも「今ここに橘エリーがいてよかったな」と思ってもらえたら。
少しでも「橘エリーがいることに意味がある」なら。

だから私は、街で見かけたら募金するよう心がけている。
この前は赤十字に定期募金の申し込みをした。


私は「心優しい」わけではない。
「私が存在する」という罪を贖うために、少しでも世のため人のためになることをお手伝いさせていただいている、だけ。

私には金がある、しかし健康はない。 両方ともある方が羨ましい。
両方とももたざる方に比べたら、私だって「羨ましい」のかもしれない。
 「羨ましい」「あなたこそ羨ましい」 そんな思いはもうしたくない

だから私は、積極的に「札束で殴る(金銭で解決する)」。
自分に都合がいいように、自分の辺りを変えてやる。

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