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雨の渋谷で


込山に会ったのは
11月はじめの朝だった。

それは、
ハロウィンの夜がシーツを巻いて恥じらう渋谷の朝だった。

私は脳の皺まで酒に浸かった体をぶらさげてほっつき歩き、
どういうわけか込山に出会った。


込山という名前は、
勝手に私の記憶に書き込まれた。


込山と呼んで振り返ったわけでもなければ
コミヤマという響きが似合う風情なわけでもない。


それにおそらく込山は日本出身でもない。
言葉がすらすら出てこないのだから。

けれど込山はどうしても込山なのだった。


込山の肌は髭が生えてこない仕組みになっているのか、
かといってツヤのない乾いた肌をして立っていた。

髪は日に透けてオリーブの実の色をしている。


その目は渋谷に合わない。

込山がそこに、渋谷の一角に居るだけで渋谷の野蛮さを洗い流すような雨の目をしていた。






スクランブル交差点を見下ろす書店に
込山はいつも座っていた。
何を話すでもなかった。


ただ込山の手の中で
一冊の本が羽を広げていた。


"すべてが終わったあと、ドーナツが食べたいと彼女の肉体は囁いた。僕らの肉体は急いで服を着てドーナツショップへ走った。"


辻仁成。
クラウディ。

私もまた気に入りの一冊であった。


亡命者に憧れる、成熟しきれない男の物語。


そういえば込山はいつだって
オフホワイトのシャツを着て…
ボトムは闇に溶けていた。
睫毛は夜風になびいていた。


物語の人物と込山が重なる。


込山も、何かから逃げているのだろうか。


込山との関係は
一緒にドーナツを食べたり、
お互いの口を食べてみたりするのではなかった。


「雨の渋谷は好き。
 傘がたくさん見る。
 赤い傘。青い傘。
 みんな雨の日すきな傘をしてる。」

込山がはじめてちゃんと話した。

「ハロウィーンのおなじ。
 あの日自由になるね。
 僕もおなじ。」

どうやら込山はハロウィンと関係があるらしい。





またしても渋谷に雨が降った夜、
込山は私の部屋の前に立っていた。


驚くというより、
今までこうならなかったのが不思議だった。


込山は私のベッドの上に腰掛け、
何も言わずに睫毛を震わせた。


ホットワインを準備することに決めた私は
どういうわけか、
ハロウィンの話を蒸し返していた。


「ハロウィンって、交差点で見た傘みたい。
 傘なら顔も隠れるし、
 雨に紛れるような気がする。

 みんなきっとあの特別な夜に
 欲望を解放するんだよ。

 何者かになって、
 とにかく自由になりたいんじゃないかな。」


これから甘くなりそうな
ベッドを振り返ったとき、

もう込山はそこに居なかった。






失くした財布を探すように、
どこかで落としたスマホを探すように。


いや、
もっと微かな望みのもの。



気に入りのピアスの片方。

背伸びして買った靴のビジュー。

そんな感じだった。



部屋を飛び出して
渋谷の書店目掛けて走った。

込山風に言えば、
傘をするのも忘れていた。


込山は、誰なのだろう。

込山は、誰なのだろう。


小説のコーナーに駆け込んだ私は

辻・辻・辻

血眼になって探した。


辻仁成のクラウディは、
雨に濡れて顔中に張り付いたきもちわるい前髪を私に気付かせた。


本を開くと、
あるページがひとりでに開いた。
折り目が付いていたのだ。




"魂がふたつ、抜け殻のように
ベッドの上に置き忘れられた。"




それはこの小説で一番好きな一節だった。

ドーナツを買いに行った二人の肉体は、
魂をベッドに置き忘れたらしい。

何とも愛おしい表現に
私の体はまた芯から火照っていた。


この一節はそこで終わりのはずなのに…

一体どういうわけか、
そこには続きがあった。

はじめて見る文章。

濡れた人差し指が乾いた紙をなぞる。


"もし生きていたら
 きみに傘をしたかった"




その本を買って
そして着の身着のままのスウェットの下へ隠して走った。

込山の乾いた肌を思い出し、
その体温が残っていそうもないベッドへ向かってまた走った。

部屋の鍵をかけるのも忘れていた。

もう一度私は、
祈るように本を開いた。

けれどもう
折り目のついたページはなかった。

土砂降りの雨で少しは濡れたはずの本は
すっかり乾いていた。



























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