弱体化する学問分野への工学という呪い

筆者のイメージとして、工学部でやる研究は「これがわかったのでこれができるようになります」「これができるようになりました」という類のものが多い気がする(多くの先生方もそう思っているイメージがある。)

ただ、分野が国内で衰退してしまうと「これができるようになります」どころではなくなってしまう場合があるように思う。

国内で分野が衰退してくると、なんとなく役に立たなそうに見える理学部の方からあおりを受けることが多く、本来理学部が担ってくれるはずだった「これがこうなる理由はこれです」系研究の、工学部への供給が止まってしまう。すると工学部の方でその基礎的な部分から担わなければならなくなる。ここまでは比較的良く語られる話だと思う。

ここからが負のスパイラルへの入り口だ。工学部に入ってくる学生は多少なりとも「役に立つことをやりたい」と思って入ってくる人が多い。すると基礎的な科学研究にあまり興味を示さない学生がどうしても多くなる。教員側は、何とか学生の興味を惹こうと役に立ちそうな研究テーマを提示するようになるが、これがどうしても基礎的な裏付けがないもので、教員が頑張って指導してもパブリッシュするのが難しくなってしまう。

ただ言われたことをやるだけの学生が入ってきてくれると、意外と楽かもしれない。むしろ難しいのは、基礎的だが、良いデータを出した、真面目な学生の扱いかもしれない。工学部の真面目な学生であるほど、「役に立ちそうなところまで持っていかなければならない」と思って(または教員にそう言われて)、データが出てからもパブリッシュせずに色々こねくり回して、結果としてパブリッシュせずに卒業してしまうケースを散見する。さらに追い打ちをかけるのが、卒修論中間発表会などでの、専攻内の先生の一言である。

「これは工学なんですか?」「これをどう役立てるんですか?」

国内で衰退してしまった分野では、たとえ国内学会に出したところで、得られるフィードバックはそこまで多くない(or フィードバックの質はそこまで高くない)。したがって、専攻内の先生からの一言は、学生に絶大な意味を持ってしまうのである。専攻内の他の先生の専門は、大概の場合、近くないので、衰退中の他の分野の事情など知る由もないのだろうが、この一言が、真面目な学生を間違った方向に努力させがちであることを理解したうえでコメントしているのだろうか?というか、工学に従事するなら基礎的な研究への敬意を持っていてほしいものである。。。

もちろん、基礎的な研究に従事する学生が、その研究の応用可能性を十分に理解することは非常に重要である。しかし、息も絶え絶えの分野では、応用できるのが遠い遠い先であることが普通だと思う。また、分野が衰退しているならば、「役に立つ」革新的な研究のアイデアで起死回生をはかることも確かに重要である。だが、それはあくまでプロの研究者の仕事であって、学生の仕事ではない。先が細っている分野が今やるべきことは、中途半端に工学っぽい研究をしようとすることではなくて、学生という若い世代の力を借りて、とにかく今持っているデータをパブリッシュすることである

この戦略を取ると、たしかに1報1報の論文のインパクトは落ちてしまうかもしれない。また、「役立つ研究がしたい」と思っている学生のモチベーションと正面から向き合う必要があるかもしれない。しかし、分野が衰退しているのならば、一番に取り組むべきことは、次世代を担う人材の育成である。これは何も、指導した学生全員を研究者にせよという話ではない。その分野で、研究のアイデアを思いついてから論文として形にするまでに、どれほどの労力が必要なのか、自分が取り組む研究が、どれだけ先人の努力に支えられているのか、その研究に、世界の人がいかに真摯に取り組んでいるのか、そして、その分野が国内で衰退することで、何が失われようとしているのかを、自分の体験として理解できる人間を増やさなければならないという話である。それを理解した上で誰もその分野の研究者を志さなくなれば、それはその分野の終わりを意味するのかもしれない。

衰退しようとしている分野に限らず、結局のところ、そもそも研究というものに真の意味で理解のある人間が増えない限り、研究というものに投入されるリソースの全体も大きくならないだろうと思う。工学であること、役に立とうとすることに囚われるあまり、目の前にいる学生のポテンシャルを引き出し、味方につけることができないならば、いつか本当にその分野は終わってしまうのだろう。

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