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  • 小説「なんで、私が乳がんに?」

    40代、独身をこじらせている社畜、美咲に乳がんが発覚。ネガティブな要素しかない美咲の悪戦苦闘と周囲の人々との交流、恋を描くユーモア小説。

最近の記事

小説「なんで、私が乳がんに?」(28)

入院までにいちど「ひだまり」に行っておこう。週1~2回は行っているので、2週間顔を見せないと心配されそうだ。しばらく忙しくて行けないとでも言っておこう。店主の明子さんに今日、行きますとLINEしておいた。 仕事が終わってから店に行くと、仲のよい常連さんがたくさんいた。先に登場した橋本さんや歯科医の中井さん、今年社会人デビューしたばかりの神谷くん(若いのに昭和文化に憧れている江戸っ子)、美容師の美菜ちゃん(自称元ヤンキー。気配りこまやかで懐が深い)、運送会社で事務をしているな

    • 小説「なんで、私が乳がんに?」(27)

      海外旅行用の大きなスーツケースを持ち出した。 まずは「手術のマストアイテム」からだ。病院から、術後の胸と腕が動かないように固定するためのバンドを用意するように言われている。また術後は当分ブラジャーができないので、ソフトなタイプのブラトップ。カップはポケット状の部分に出し入れでき、あってもなくても使えるようになっている。診察のための脱ぎ着がしやすいよう前開きのマジックテープ式になっている。よく考えられている。これらは乳がん患者用のグッズ専門店のネットで購入した。しかし生産ロッ

      • 小説「なんで、私が乳がんに?」(26)

        社畜生活も20年を越えるが、2週間も休みを取るのははじめてである。人生初のロングバケーションが新婚旅行でもなんでもなく、こんな形になるとは。 課の部下たちには入院のため2週間休むが、大した病気ではないのでそうっと休んでそうっと帰ってきたく、内聞にしてほしい、と伝えた。最初の数日は無理だが、3日ほどたてばPCは開けるので、リモートワークとでも思っておいてほしい。外部の関係先にも病院から連絡すればわからないのでとくに言わない。しばらく迷惑をかけるが、サポートをお願いしたい。病名に

        • 小説「なんで、私が乳がんに?」(25)

          そろそろ仕事関係のダンドリだな。職場で心を 閉ざし、「一見社交的なひきこもり」を通してきた美咲にとってはこれもなかなかな関門である。 とりあえず部長に話をすることにした。60歳手前の西川部長は、お堅い社風のわが社には珍しいタイプの自由人といおうか、ライトなノリの人である。 仕事は切れ味があるのだが、なんとかと天才は紙一重といおうか。 働き出したばかりの頃、趣味で当時流行りのGS、グループサウンズのコピーバンドを結成して「ジェリー」を名乗り、長髪でエアギターを担当していた

        小説「なんで、私が乳がんに?」(28)

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        • 小説「なんで、私が乳がんに?」
          29本

        記事

          小説「なんで、私が乳がんに?」(24)

          帰宅すると、郵便受けが溢れそうになっていた。 父親からA4サイズの分厚い封書が届いている。 開けてみると、乳がんについてネットで検索した参考資料の束だった。プリントアウトして、ここが大切!と父親が思った部分に付箋やマーカーでご丁寧に印が付けてある。調べないと気が済まないところはやはり親子だな、と思う。資料のほとんどは美咲も既にネット上で見たものばかりで、心苦しいがそのままゴミ箱に突っ込まれることとなるだろう。アナログ派の父親の労力が痛ましい。美咲は自分のことだから必死にな

          小説「なんで、私が乳がんに?」(24)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(23)

          奈々ちゃんは続けた。 「乳がん手術の後でいい人と出会ってつきあったり、結婚した人、たくさんいるよ。恋愛が関係なくなっちゃうなんてことないよ、考えすぎやって。」 奈々ちゃんはスマホで検索して、画像を見せてくれた。 「これ、ぜひ見てみてほしいな。」 それは「いのちの乳房」というタイトルの写真集だった。 乳がんを宣告された女性たちのために「乳房再建手術」の経験者たちがつくった写真集で、写真家・アラーキーこと荒木経惟氏が乳がん手術後、乳房再建手術で乳房を取り戻した女性たちの

          小説「なんで、私が乳がんに?」(23)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(22)

          居酒屋に入ったものの、美咲は禁酒中、奈々ちゃんは日頃からアルコールを一切口にせず、体が冷える食物も避けている。ふたりして温かいお茶と、焼き鳥や湯豆腐、焼き茄子などヘルシーな料理を頼む。 「今日診察室に入ってきた顔見たとき、『大丈夫かな?』って思ったよ。」と奈々ちゃんが言う。 「そんな切羽詰まった様子だった?」自分では気づいていないがすごい形相になっていたのだろうか。 「んー、まあこんな風に話せるからちょっと安心したかな。」 「奈々ちゃんは最近どうしてたん?」 そこか

          小説「なんで、私が乳がんに?」(22)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(21)

          美咲のもうひとりの医者の友人、奈々ちゃんは内科医だ。去年近くのビジネス街に、西洋医学に東洋医学の漢方を採り入れた治療をするクリニックを開業したばかりだ。メンタルの不調に連動した体の不調を改善するということで、ストレスフルなビジネスパーソンや女性ならではの不調に悩む人、不妊治療まで患者さんは幅広い。美咲は乳がんの診断後、心に余裕がなく、特に不調ということでもないのだが欝々としており、とにかく話を聞いてほしくて診療時間終了の間際にクリニックを訪れた。奈々ちゃんと会うのはほぼ1年ぶ

          小説「なんで、私が乳がんに?」(21)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(20)

          さて、次は同じ病院内の「見た目問題」担当、形成外科の先生の診察だ。 乳がんの切除手術は乳腺外科の東村先生、そのまま形成外科の高井先生にバトンタッチして、乳房再建用のエキスパンダーを埋め込む、という段取りなのだそうだ。手術は前半2時間、後半1時間くらいだそうだ。 高井先生の診察室のドアを開けた。 歳の頃は東村先生と同様50と少しくらいだろうか。「変わり者です」というオーラを全身から放っている。櫛を入れた形跡のないもじゃもじゃ頭で、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を鼻先にひっか

          小説「なんで、私が乳がんに?」(20)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(19)

          東村先生は、紙に乳房の図を書き、鉛筆で場所を指しながら「森本先生からも聞いてもらったと思いますけど、ここにがんがありますのでね、手術ということになるんですけど、今の時点では非浸潤の可能性が高いけれども範囲が広いので全摘をお勧めします。手術の前に、CTと、造影剤を使ったMRIの検査をします。念のため他の場所への転移がないかどうか確認するためと、がんの広がりの度合いを正確に把握するための検査です。 初期なので、一期再建といって乳房同時再建の適用ができる例になります。再建はこの後

          小説「なんで、私が乳がんに?」(19)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(形成外科編)

          形成外科の診察室に入った。今日は乳房再建について具体的な説明が聞けることになるだろう。すでに、乳房全摘手術で、インプラントによる同時再建を希望することは伝えてある。 「ちょっと胸見せてくださいね。」 乳がんの診断を受けてからというもの、いろんな先生に胸を見せる機会が頻繁にあるので、以前のような羞恥心は一切なくなっている。 高井先生はいつもの瞬きしない瞳で美咲の胸を1~2秒見た。 「160mlのインプラントを入れましょう。」 そして次の言葉を待っている美咲に、のんびりと 「

          小説「なんで、私が乳がんに?」(形成外科編)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(18)

          〇〇病院の予約の日がやってきた。森本クリニックから紹介してもらった〇〇病院を選んだことは、結果的には橋本さんのアドバイスである「家からいちばん近い病院であること」と合致していた。 美咲は数年前、外部機関に出向していたときに、〇〇病院の隣のオフィスビルの中で働いていたことがある。窓から〇〇病院の屋上が見えたのだが、木や花が綺麗に植えられていて日当たりがよく、パジャマで気持ちよさそうに散歩している入院患者の方の姿が見えた。また、その職場で脳内出血で倒れた人が出たときに、隣の〇〇

          小説「なんで、私が乳がんに?」(18)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(17)

          蝉の死骸がかさかさと乾いた音を立てて街路樹の下を転がっていく。空はどこまでも高く、薄い青に澄んで、ひと刷毛はいたような雲が「夏は終わった」と告げている。あいかわらずのうだるような暑さなのに、夏はほんとうに終わったのか?嫌だ、まだ終わったとは認めたくない。 この頃の美咲は、ただ空が青い、という、そのことだけで泣けてくる。早くも店先に出だした来年のカレンダーを見ても泣けてくる。来年も確実に生きている、という暗黙の前提で、正しく繰り返される、四季と人々の命の営み。今この瞬間もここ

          小説「なんで、私が乳がんに?」(17)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(16)

          近所の目につかないよう、こそこそと忍び足で実家の玄関にたどりつき、ドアをそっと開けた。自分、ちょっと気にしすぎ。 両親がいつものように「おかえり」と迎えてくれる。会うたびに老いが進んでいることに胸が痛む。 小さな食卓を囲んで久々の団欒だ。美咲のリクエストで、昔よく作ってもらったお稲荷さんやアサリの酒蒸し、ホウレン草のお浸しなどが食卓に並んだ。 食後のお茶を飲んだところでようやく切り出す。 「ちょっとよくない話があるんだけど、落ち着いてきいてね。とりあえず先に謝っておく

          小説「なんで、私が乳がんに?」(16)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(15)

          ひさしぶりに実家に帰るからと連絡した。少し話があるので土曜日の夕方に帰って一泊するからよろしくと。 父親は昔からひとり娘の美咲を溺愛している。大体が心配性で人の世話を焼くのが大好きな気質だ。なんでも先回りしておせっかいをしてくる。ただし、それは実はすべてを自分のコントロール下に置かないと気持ちが悪い、という支配欲がベースであることには本人はおそらく気づいていない。 こどもの頃に、父親、つまり私の祖父が芸者と出奔したため、夜間の大学に通いながら公務員となり、母親や弟妹に仕送

          小説「なんで、私が乳がんに?」(15)

          小説「なんで、私が乳がんに?」(14)

          そろそろ言わないとなあ、親に。ああ、気が重い。 大学を卒業して就職するときに実家を出て以来、20年以上にもなる。神戸郊外の新興住宅地であるが、いまや高齢化が進んだオールドタウンだ。 美咲はもう長いこと、お盆と正月くらいにしか実家に帰っていない。あのエリアの雰囲気が苦手だ。なんというか、どこを切っても金太郎飴のように均一に同じ断面が現れる街である。「ザ・『中流のちょっとだけ上めの家庭』」しか住んでない。まあ都市の中心部から30分かかるとはいえ、そこそこ大きい一戸建てを持つと

          小説「なんで、私が乳がんに?」(14)