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青春の指は、冷たい。

「ラ・ボエーム」について書いてみます。イラストは主人公ミミのイメージです。
オペラのことを思い出していると、突然「ラ・ボエーム」が始まります。
舞台の印象が次々に浮かび上がってきて、メロディも湧き上がってきます。
記憶や印象をもう一度たどりたくなって、記憶の玉手箱を開いてみました。


1. 鑑賞の痕跡を辿る

当日のプログラムによる確認

プログラムは5冊ありました。手帳で鑑賞の日付を確認しました。

2007年1月 藤原歌劇団 Bunkamuraオーチャードホール
2011年1月29日(土曜日) 新国立劇場
2016年11月20日(日曜日) 新国立劇場 
2020年2月2日(水曜日) 新国立劇場 楽日 
2023年7月8日(土曜日) 新国立劇場 楽日
新国立劇場の演出は、4回とも粟国淳さんによるものです。

記憶。渋谷さくらホールにて

小規模な演奏会を、渋谷さくらホールで鑑賞した記憶があります。オーケストラの音がエレクトーンで再現されていました。友達と3人で連れ立って聴きにいったのですが、フライヤーなどが紛失してしまっていて年月日をどうしても特定できませんでした。

映画。ラ・ボエーム

監督:ロバート・ドーンヘルム
出演:アンナ・ネトレプコ ローランド・ビリャソン
演奏:バイエルン放送交響楽団
2009年2月14日東京テアトルで公開

https://youtu.be/_bIE-D_2XQQ?si=YR9K1NAc4msxPrPB

観た記憶がはっきりとあるのですが、いつ観たのか、確認できず。

2. ざっくりと、作品紹介

 原作、発表時期、初演劇場

原作:アンリ・ミュルジェール(1822-61)「ボヘミアン生活の情景」より
作曲:ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)
台本:ジュゼッペ・ジャコーザ(1847-1906)/ルイージ・イッリカ(1857-1919)
初演:1896年2月1日 トリノ・レージョ劇場 


 あらすじ

<第1幕>19世紀のパリ。若く貧しく夢に溢れた4人の芸術家たちが屋根裏部屋で共同生活をしています。クリスマスイブに街に繰り出す4人。ロドルフォがひとり出遅れたところに隣に住むお針子のミミが「鍵をなくした、探すから灯を貸して」と登場して2人はたちまち恋に落ちます。

<第2幕>ミミも参加した宴の席に画家マルチェッロの元恋人ムゼッタが現れて、この2人もよりを戻します。

<第3幕>冬の早朝、アンフェール門近くのマルチェッロの仕事場を訪ねたミミはロドルフォとうまくいかないと告白します。ミミが去った後、ロドルフォがマルチェッロに「ミミは不治の病で医療が必要なのに貧しい自分にはミミを救えないのが辛い」と告白。その言葉をミミは物陰で聞いてしまいます。ロドルフォとミミは「別れよう、でも本当に別れるのは春まで待とう」と決意します。マルチェッロとムゼッタは喧嘩別れします。

<第4幕>数ヶ月後、相変わらず貧しい4人の芸術家たちが屋根裏部屋でふざけあっていると、ムゼッタがミミを連れてやってきます。階段も上がれないほど弱っているミミ。幸せだった場所で愛する人の近くで死にたいと願って街を彷徨っていたミミを、ムゼッタが探し出してくれたのです。冷たい指をムゼッタのマフで温めながらミミの命は尽き、ロドルフォは慟哭します。

3. 観た当日の感想

 

 2007年1月26日(金)27日(土)28日(日) Bunkamuraオーチャードホール

藤原歌劇団の公演。Bunkamuraオーチャードホール。2006年度の手帳が紛失してしまっていて、プログラムに記載の3回のうち、どの日に見たのかは不明。
マルチェッロを堀内康雄さんで聴いた記憶があるので、28日だと思われる。


 2011年1月29日(土曜日) 新国立劇場

日記帳より。
冬は、寂しいから2人でいよう、という2人。
一緒に暮らすと幸せになれないから別れる、という選択。すごく厳しい選択だ。
自分の未練やためらいを全部捨てるのだから。泣いた。


 2016年11月20日(日曜日) 新国立劇場

日記帳より。
他の予定は諦めてオペラを選んだ。前にボエームを見た時のことを思い出したら、この間の出来事の数々が胸に迫った。
家に帰ってから泣いた。

2016年11月20日、新国立劇場ホワイエのクリスマスツリー

4. 2020年2月2日(水曜日)新国立劇場:感想メモ

(初出:当日のFacebook・限定公開)
好きなオペラのベスト10に間違いなく入るボエーム。今日ほどボエームに泣いたことはなかった。

ついに、わたしも冬の夜明けのアンフェール門にたどりついた。冬は、ひとりでいるには寒すぎる。近く暮らせば愛ゆえに傷つけあってしまうのに、ひとりでいるのは寂しすぎる。生命が弱っていくことを、ひとりで受け止めるのは辛すぎる。

ヒロイン、ミミの、本当の名前は、ルチア。その意味は、光。

ルチアは窓辺で薔薇を育てていて、春の光を独り占めするの。
冷たい指のルチアは屋根裏の白い部屋に住み、街中の空にいちばん近いところで、誰もまだ気づかない春の光を、誰よりも先に掴むことができるの。
彼女は、光だから。

第一幕の「わたしの名前はミミ」で涙が出てから、ミミが歌うたびにポロポロと涙がこぼれて大変なことになってしまったのだけど、ムゼッタという得難い女友達の存在にも、ボロボロになってしまった。
オペラに登場する女の人で、こんなに魅力的なキャラクターは他にいるかしら。
数日前にこの公演を観た友達が感想を教えてくれた。彼女もムゼッタみたいになりたいって言っていたけど、本当、ほんとね、本当にムゼッタは素敵。

感想を言葉にしようと舞台を思い出して、いま、電車の座席で、改めて泣いているわたしだ。
何故って、曲が素晴らしいから。音楽が、フレーズがよみがえるだけで、涙腺決壊なのである。
音楽は歌の部分だけでなく、楽器で奏でられる部分も、イタリア語で語られるように聴こえてくる。話す抑揚がそのままメロディになっている。ストーブで火が燃える様子も、思いも、考えも、相手との以心伝心のありさまも、情けなさも心細さもみんな音楽になっているのだ。

♫ボンジョルノ、マルチェッロ…マスクしているから、泣いてるのバレないよね。

演出は粟国淳さん。ボエームの世界にふさわしい色と光と奥行きで描き出す世界観はとてもとても美しかった。この舞台があってこそ、傷つけあって青春を生きていく、愛しあっているのに苦しい、その詩情が、がリアリティを持ったに違いない。
今日が千秋楽だからなのか、粟国淳さんがカーテンコールに出てきてくださった。歌手に対する拍手喝采もたいそう大きかったのだけど、指揮者とオーケストラへの拍手は、いっそう感激に満ちていたと感じられました。

2020年、演奏のスケジュール

5. 2023年7月8日(土曜日)新国立劇場:感想メモ

(初出:当日のFacebook・限定公開)
新国立劇場の今シーズン最後のオペラ。
「ムーラン・ルージュ」の同工異曲で「レ・ミゼラブル」とは同時代で「RENT」の元ネタで「1789」の後日譚で、「椿姫」ともシンクロしている。

ヴィンセントとテオのゴッホ兄弟、そしてポール・ゴーギャンが生きていた時代。
シャルロット・コルデも、ロペスピエールもデムーランも、それほど遠くない昔にこの街を歩いていた。もちろんオスカルさまの遠い後ろ姿も見える。

宝塚のお芝居では、よく、屋根裏部屋をねぐらにする芸術家の卵たちがいて、気焔をあげている。

プッチーニに恋を語らせると、ヒロインは何故か悲しい運命を生きることになってしまうのだけれど、
今日、わたしは聴きながら、ミミが本当に不幸だったのか、ちょっとだけ疑った。

そしたら、ミミが、ムゼッタが、突然すごく親しい友達のように感じられてきて、
笑顔も腹立ちもべそっかきの泣き顔も、すごくすごく身近になってしまった。

弱虫ロドルフォの弱音も、いじっぱりマルチェッロの痩せ我慢も、ちょっと得意顔のショナールも、実は勇敢なコッリーネも、親しい友達のような気がした。

暗い屋根裏部屋で初めてミミとロドルフォが出会ってミミが「名乗りの歌」を歌うとき、涙スイッチが入り、カフェ・モミュスでムゼッタとマルチェッロが心のわだかまりをとくところでまた涙。
びっくり。まだ、全然泣くところじゃないのに。そのあとは、もう、だめだ。

マスクをしているのをいいことにお化粧直しもしないまま。
もしかしたらマスカラとお白粉の、洪水の痕跡が残っているかもしれない。

第2幕と第3幕の四重唱は、どちらも珠玉。
第2幕では、ミミは会ったばかりのムゼッタのステキなところを誰よりもよく理解している。それはたぶんミミが深い洞察力をそなえた芸術家だから。
第3幕のアンフェール門の四重唱では、メロディと歌詞と人間模様が描き出す密度にひたすら圧倒されてしまう。しかも、内容とは裏腹に、あくまでもリリカルだ。

何故、春になるまで別れを待つのか、その理由がようやくリアリティを持って感じられたような気がして、打ちのめされた。

ミミは、綽名で、本当の名前はルチア。フランス語の語感はよくわからないけど、典型的なグリゼット(お針子)の可愛いらしくてパラっとした雰囲気を、「ミミ」は、映しているのかな。

ルチアは、「光」。ルーチェ。ライト。ルミエール。
詩人ロドルフォに「詩」そのものだと歌われるミミ。
暗闇に生まれ、月の光に照らされて輝くミューズ。
夢と霞を糧として生きていたロドルフォが出会った、本物のポエジー。
物語のラスト。彼女は少し大人になりかかったボエームたちの部屋に戻ってきて、魔法の光でみんなを照らすの。
「ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル」で、ヒロインのサティーンが命をかけて歌うのと同じ。「椿姫」でヴィオレッタが喜びをよびかけるのと同じ。

ミミの命も短くて儚かったけど、ミミはルチアで「青春の光」そのものだった。
そうだ、「さらば青春の光」まで連想しよう。

ミミはお針子で、刺繍をするのが仕事。
屋根裏の慎ましい暮らしだけど、春の最初の光を、誰よりも早くつかまえられる。そんな「自分の力」を、知っている。
この、自己紹介の歌、本当にステキだ。彼女の歌は「アーティスト宣言」。

ああ、まぶしいなあ。綺麗だなあ。

今日、カーテンコールで、ミミを歌った歌手は泣いていた。泣くよね。

今日のカーテンコールの最後に粟國淳さんが出てらした。たまらずスタンディングしました。粟國さん、再演にきちんと関わっていらしたんですね。
演出家の誠実さが、舞台を輝かせていたんですね。

2023年7月7日、劇場前のポスター

6. ボエームは青春群像の基本形

青春とはなんだ

デジタル大辞泉で確認してみます。

青春(せいしゅん)とは、五行説で青は春の色であるところから、夢や希望に満ち活力のみなぎる若い世代を、人生の春にたとえたもの。青年時代。

「青春」という単語は、少なくとも、若い頃のことを指すらしい。

わたしは、若い頃、夢や希望に満ち活力のみなぎる状態だったのか、と自問してみれば、もちろん、答えは鈍い色を放ってそこにあります。あの頃はまだ行方も定まらないのにエネルギーだけは充満していて、それをわたしは持て余していた、と、答えざるを得ません。幸せで満たされていた瞬間よりも、迷って中途半端だったことがらを追憶する時に、「青春」というコトバはいっそうリアルです。

誰かの青春は私の青春にも似ている

ボエームの登場人物は「夢や希望に満ち活力のみなぎる若い世代」の人たちで、出会いと別れの中で生きています。誰にでも心当たりのあるその日々は、ひとりの1つのエピソードだけでは多分語り尽くせないもの。6人の歌のちょっとしたフレーズの中に、角度を変えて煌めくプリズムのようにひらめいて、そこに客席から覗き込んでいる自分の影法師がチラリと横切る、その閃光が思考の内側にぶつかってくる。それから、恋が始まるときの、愛がもつれるときの、あの感覚。
「心当たり」がザラっと疼く。文字通り「心」に「当たる」。
群像には、説得力があります。「心当たり」が手を変え品を変えて、現れるから。

パリは、憧れの街

パリの屋根裏のグレーの世界。憧れが詰まっていて、同時にとても懐かしい世界。読書体験や歴史の教科書に出てくる出来事の舞台、イメージの中に存在する世界。歴史の重なった石畳と、石造りの建物と、木製の階段と、梁と、窓枠と、扉。

実際に何回か訪れているパリですが、その時の体験だけでない憧れが重層的に積み重なっています。ボエームの舞台、ムーラン・ルージュの舞台、フランス革命の舞台。そうそう、2024年の夏はオリンピックの舞台。

いつか暑苦しくパリを語ることになるかもしれません。

2012年8月に撮影したパリの街角のスナップ写真

7. これからも、また観たい

感想を見返すと、ミミとロドルフォが別れを決めた、冬の早朝のアンフェール門でのシーンが繰り返し語られています。観るたびに心を動かされ、時に「わかった」気になっています。
でも、わたしはまだこの物語で描かれている本当の孤独を知っていないような気もしています。とても愛着を持っている相手とお別れしなければならない、そんなことはこれから次々に起こるのだろうけど、その度にこのオペラを思い出してみたいです。何を感じるのか、泣きながら確認してみたいです。
未来に間違いなく約束されている、息をひきとるとき。
それは、誰にも平等にやってくる。
そうなのですが、わたしは、従容と受け入れるなどという境地には、まだまだとてもじゃないけどなれません。
そこに辿り着くまでに、もっとジタバタ、もう少しドタバタ、してみたいです。

そして、わたしがもっと大人になって「残っている時間が本当に少ない」
と悟ったとき、ミミみたいに、一番好きだったところに戻って行きたい。

それはどこなのかな、と、考えを巡らせてみます。

ミミ。寒そうですね。ごめんね。


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