赤ちゃん農場。ヴィクトリア時代の闇
18世紀から19世紀にかけてのイギリスでは道徳が強調され、そこからはみ出た者は社会的制裁を受けた。労働に対する称揚は貧困者への蔑視に繋がり、理性と知性への賛美は精神病者への嘲りへと結びつく。貧困や精神異常は不道徳だからなるのだと考えられた(もっとも勤勉な国王ジョージ3世が精神異常に陥ったため、どんな人でもなる時はなるのだとも理解は進んだ)。
こうした中、イギリスで称揚された美徳の一つが女性の純潔、貞淑であり、浮気・不倫があり得ないのは勿論のこと、未婚の母は激しく蔑視された。1834年の新救貧法は貧しい未婚の母が救貧院に留まる限り衣服や食糧、お金の支給を受けると規定されたものの、『堕落した女』を教化するための施設である救貧院の環境は劣悪・苛烈である事は広く知られており、殆どの母親が何の支援も受けられないまま働く事を余儀なくされる。当時の女性に開かれた仕事は少ない。彼女達の多くは住み込みの家事労働者即ちメイドになるよりなく、子供に費やす時間はない。誰かに預けて面倒を見てもらわねばならなかった。
こうした社会的状況が怪物を産む。
アメリア・ダイアーはイギリス最悪のシリアルキラーで、1869年に年嵩の夫に先立たれて以後、収入を求めて子供の世話に難渋する未婚の母親達に目をつけ、ベビーファーマーとなる。
ベビーファームとは営利目的の孤児院、或いは託児所で、定期的な支払い、或いは前払いを受けて子供の世話をするのが仕事だった。理想的なケースで言えば働く母親に代わって24時間のデイケアをファーマーは引き受けるべきだけど、利益を最大化するため多くのファーマーは過剰に子供を受け入れたので、乳幼児時代を生き残る子供は非常に少なかった。
ダイアーもその例に漏れず、行き届いた介護を謳いつつ、引き取った子供を放置し、飢えるに任せて餓死させた。騒いだ時にはアヘン入りシロップや強いアルコールを与えて鎮静化させる。彼女の顧客には養子縁組を希望する裕福な家庭の女性もいた。婚外子は家の恥。存在そのものを消し去りたい。当然こうした母親は二度と会いに来ない。
「私はお金が欲しい。お嬢様は厄介払いがしたい。利害の一致ね……」
ダイアーの家は幼児の処刑場と化す。
乳幼児の死亡率が高かったヴィクトリア時代とは言え、ダイアーのファームの死亡率は群を抜いていた。死んだ子供の遺体の処理を頼まれていた医師がいくら何でもおかしいと告発し、アメリアは逮捕される。しかし故意の殺人とは見做されず職務怠慢、ネグレクトの罪で彼女は裁かれたに過ぎず、6ヶ月で出所した。
「失敗失敗。もう少しやり方を考えないとね」
投獄の経験はダイアーをより狡猾で危険にしただけだった。ダイアーは以後、死体を自分で処理し、住居を転々とし、偽名を使って特定を避ける知恵をつける。より効率的に儲けるため、ダイアーは最早餓死に頼らなくなった。預かったらすぐ締め殺す。どうせ自分はすぐいなくなる。継続的な支払いも断り、前払い一括を要求する。
彼女の殺人ビジネスは30年の長きに渡り、400人以上の子供が彼女の手によって殺された。彼女にとって子供とは、札束に過ぎなかった。
ダイアーは遺体を新聞や郵便物で包み、環境汚染でドス黒く濁っていたテムズ川に流していたけど、ある日、はしけの船頭がそれを拾い上げる。
「ひっ、ひい!?」
恐怖した船頭は思わず手を離した。何者かが故意に赤ん坊を殺して捨てている事が明らかになり、警察が動く。包み紙に記されたアドレスからダイアーの偽名の一つである「トーマス夫人」に警察は辿り着き、彼女を監視下に置いた。
「なかなか尻尾を出さん。かなり頭が回るぞ。監視している事が知れたら行方をくらます可能性が高い」
警察は若い女性を囮にダイアーの本性を引き出そうと試みた。
「新しいカモがきた……。大事に扱ってあげるから安心なさい……」
獲物に食いつく体勢になったダイアーに隙が生まれる。警察は遂に関与を確信し、踏み込んだ。
「うぇっ……。酷い死臭だ……!」
クライアントには決して入らせなかった彼女の『職場』は異様な臭いで満たされていた。死体は見つからない。いつまでも証拠を残すような迂闊な人間ではない。しかし警察は彼女のビジネスに関する証拠を押収する。
「届けられた母親からの手紙から類推するに、少なくとも過去数ヶ月だけで20人以上の赤子が犠牲に……。それと、間一髪でした。ここを引き払う直前だったようです……」
ダイアーは逮捕され、裁判にかけられる。ダイアーは自分は精神病者で治療が必要だと主張したものの、誰も彼女を支持せず、5分で彼女は絞首刑が確定となり、執行された。こうしてイギリス史上最悪の連続殺人事件は幕を下ろす。奇しくも切り裂きジャックと同時期のことだった。
悍ましい事件はイギリスを震撼させ、養子縁組の厳格化と、児童保護に関する法律の強化が進められた他、児童虐待防止協会の知名度が高まる一因となる。
しかし根本的な原因を言うなら、未婚の母に対する白眼視がダイアーと言う怪物を産んだと言えるでしょう。彼女ほどではないにせよ、当時ベビーファームに子供を預ければどうなるかは薄々勘付かれていた。それでもそこを頼るよりない母親は大勢いたのだから。
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