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刑罰廃止論草稿第2版 第3部 スワンプマン論法


「故意」という概念は論理的に不可能

義務論・刑法学旧派に基づく刑罰の根拠は、「人間には犯罪をしないという自由意志があるのだから、それに従わなかった場合は罰せられる」というものであった。

けれども「故意」という概念は論理的に不可能である。なぜなら、他人に殺意があるかどうかなどどうして知り得るのだろうか (永井均「他我問題」『事典 哲学の木』等を参照)。知り得るのは、どこまで行っても「故意のように思われる振る舞い (behavior)」だけである。本当に故意なのはいつでも私だけである。見ているのはいつでも私だ (Wittgenstein Blue Book)。

もし超能力で他人の気持ちが知り得たとして、思念が何か言語的あるいは視覚的情報でオーラのように伝わるならば、結局それは一種のbehaviorであって、言語や体の運動を観察する通常の行為主義的心理学からほとんど逸脱はない。他人の気持ちが真であると確かめるためには、本人に尋ねる(!) なり、その後の行為を観察して確かめるなりしなければならない。

しかし、「操られて故意のような振る舞いをさせられている」という可能性はないのだろうか。

あるいは、犯行後は自由であったが、犯行前は不自由であった場合はどうであろうか。

犯行前は操られていたのだが、犯行後の今は犯行前にも自由であり今も自由であると信じ込まされており、本当は今もなお操られているという場合はどうであろうか。

草稿の現段階では問いを並べることしかできないが、「自由意志があったのに犯罪を行なったから罰せられる」という考えが素朴に過ぎることは示唆される。


Image by Okan Caliskan from Pixabay

罰の不可能性

以上により、「犯意」は不可能なので、「犯行」も不可能である。それゆえ、もちろん「犯罪」も不可能である。

それでは、これまで「犯罪」と呼ばれてきたものは、なんだったのだろうか。

答えは「災害」である。

余談: 「デカルト的二元論」について

Descartesは『情念論』の中で、人間の意志によらないものは「精神的」に見えるとしても「身体」に属するとした。これは慧眼、というより斬新な発想である。情念というものは、デカルトの時代の発想では spiritus animālis、現代の発想では「脳」とか「ホルモン」とかの問題かもしれない。

仏教瞑想やマインドフルネスの迷走について

話がそれるが、前段落の話は、仏教瞑想やマインドフルネスの唱える理論に深刻な欠陥があることを示唆している。なぜなら、「因果応報」や「諸行無常」を前提とする理論は、なおも意志の力を過大評価しているからである。

Spinozaの『エチカ』を読むまでもなく、精神的な不調は実は身体に原因があるかもしれず、したがって瞑想などしてもなんの成果も得られない可能性があることはほとんど自明である。具体例を挙げよう。統合失調症や発達障害は瞑想で治るのだろうか。脳等が「健常」ではない場合、いくら「心」を鍛えたところで無駄である。

基本的帰属錯誤

世界を受動知性として見たとき、他者に「責任」という概念は問い得ない。他者は事象の「原因」にはなり得るとしても、責任を問える「悪意」というものは存在するのだろうか。

ロボットの思考実験

ロボットを罰することはできないことの証明。永井均「他我問題」『事典 哲学の木』参照。

ここに、人間と見分けのつかないロボットがある。ちなみに、大前提であるが、人間と見分けのつかないロボットを作ることは可能である。ロボットに機械的・金属的ニュアンスがあるならば、人造人間でも構わない。細胞から分子まですべて一致している君の分身を考えてもよい。

このロボットを別の人が操作して犯罪行為を行わせたとき、ロボットを罪に問うことはできない。ここにおいて刑罰の根拠は旧派を採用し、自由意志だとされるからである。そもそも新派が考える刑罰って、厳密には「治療」か「修理」であって、刑罰ではないだろう。

このロボットがバグ等で犯罪行為を行なったときも、罪には問えばい。なぜなら、刑罰の根拠は自由意志であり、そしてそれは存在せず、また新法の理論はそもそも刑罰を扱っていない疑いが濃厚であるから。

ロボットを罪に問えるのは「自由意志」を持って犯罪を行なったときであるが、ロボットに自由意志はあることは極めて疑わしい。なぜなら、定義上、ロボットとはアルゴリズムに基づいて動くはずであるから。

しかし、ロボットが自由意志を持ち得るかについてはこの思考実験では決定的に反駁できたとは言い難い。

スワンプマンの思考実験

スワンプマンを罰することは不可能であることの証明。

犯罪者に対して刑罰、たとえば死刑を執行したと仮定する。

しかし、犯罪者と細胞から分子まで瓜二つのスワンプマンが奇跡的に誕生していた!

スワンプマンが罪を犯した場合、これは自然現象で生まれた存在であるから、犯罪ではなく天災である。災害で人が死んでも地球を裁判にかけることができないのと同様である。

よって、自然現象を罰することはできない。

系: Jeremy Benthamに反して、死刑の本質を不可逆性に求めることはできない。なぜなら、死刑を執行された人間がスワンプマンとして蘇ることは論理的に不可能ではないから。


第1版 2022-10-21
第2版 2022-10-29

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