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志望動機とは何か

志望動機を聞かれると答えに窮する

志望動機を、たとえば哲学科を志望した動機を聞かれるようなことがあるなら、私は困ってしまう。第一に、動機は複数ありうるから。第二に、そもそも動機という概念が難しいから。

志望動機は1つとは限らない

まず、動機概念を分析する以前に、日常言語を前提とした普通の言葉を前提として受け入れたとしても、「志望動機」、すなわち志望した理由とは複数ありうるのだから、すべて述べるべきか、絞って述べるべきか、どれから述べるべきか迷ってしまう。

志望動機が複数ありうるというのは、たとえば「フランス革命が起こった理由」という問いと類比的に考えられる。フランス革命の原因については、あるいは宮廷の奢侈によって、あるいはアメリカ独立戦争を支援した財政的負担によって、あるいは貴族や聖職者の忠誠心の欠如によって、あるいは啓蒙思想によって、あるいはイギリス革命の影響で、あるいは鉄をも貫くMarxの 史的唯物論によって、あるいはWeber的宗教経済学によって、あるいは気候変動と生態学によって等々、これまでたくさんの学説が提出されてきたのであり、またそのどれか1つだけが正しく他は間違っているということはありそうもない。

一滴一滴と打つ水のやがて岩をも穿つがごとく、あるいはむしろ中和滴定のようにかもしれないが、歴史的事件というものは大小さまざまな要因が偶然的なものも含めて積み重なり、その最後の結果として生起するものではなかろうか。

ゆえに、知的誠実性を伴って詳細に語るならば、話が相手の希望よりも長くなってしまう欠点が生じる。世界史上の事件と同様に、私の人生においてなんらかの所属を志望するに至った原因も、本当に多くの、そして自分でも気づかないくらい小さなものも含めて要因となっているのであるから、それを誠実に綿密に記述しようとすれば1冊の本とまでは行かなくとも確実に小論文の分量にはなってしまうだろう。

動機とは何か

次に、そもそも動機とは何かという問題がある。


Image by Ryan McGuire from Pixabay

時制に着目すると、たとえば「志望動機」を語る場面とはすでに「志望」をしたあとなのであり、そうなると、通常 動機を持ってから行為にいたると考えられているわけだから、動機は志望の以前であり、それゆえ志望動機を語る場面 以前であることになる。

しかし、動機を語る段になれば、当然ながら動機を語っているのは今であるが、動機を思い出しているのも今であり、過去とは「今ある記憶」になり、過去の過去性が消えてなくなってしまう。

とはいえ、そのようなことを言い出したら記憶や記録の正統性が失われ、人間文明のみならず理性的存在者としての精神すら崩壊してしまうだろうから、あらゆる記憶の真性を否定することは極論だろう。

よって、なんらかの仕方で記憶が正しい記憶であることを検証する必要がある。ただし、真理についての詳細な研究は本稿の段階では控える。けれども、外的記録や他者との照合などの方法を用いれば、記憶の正しさを担保することは不可能ではないように思われる。

しかし、記憶の正しさの問題が解決したとしても、その当時の想念が正しいものだったのか、それともたとえば精神分析的な、もっと深層に本当の動機があり抑圧して自分で隠しているだけなのかわからないという問題がある。なお、「無意識的意識」という言葉は、理性的人間がこれを聞いたときに受ける印象ほどには無意味な秘教的術語ではないと思われる。というのも、医学においてはたとえば「無意識のうちに血圧が高い」といったように患者当人が自覚していない身体状態がふつうに日常的に観察されるのだから、たとえば精神分析の「無意識のうちに抑圧している」などの言葉もまったくありえないではなかろう。ただ、その検証手段があるのか、その手段は普遍的に通用するのか、効くのか等々、命題そのものよりもむしろその検証の過程に批判的検討の場が用意されるのだと思う。

原因とは何か

ところで、動機として通用するのはどのような種類のものなのであろうか。たとえば、「太陽がまぶしかったから○した」は犯行動機として通用するのであろうか。面接で「太陽がまぶしかったから志望しました」と言われたらどうすればよいのであろう。

Aristotelēsは原因について質料因・形相因・始動因・目的因を設定した; 始動因と目的因は形相因に組み込まれるのであるが。

志望の原因として、生理学的に脳などを使って答えたらどうなるか。「脳がこれこれの特定の状態になれば、人は哲学科を志望する」ということが証明できたとすれば。しかし、証明とはなんであろうか。それは結局は帰納法による予測なのか? 脳という有機物がなければ志望できないと答えるならばそれが質料因であり、脳の電気信号等の配置は形相因であるだろう。

Aristotelēs生物学によれば、精液とは形相である。ちなみに、悪名高いことにAristotelēsは男尊女卑であるから (「から」とは?)、生殖において女性は (卵子という概念はなく) ただ夫の形相を育てるだけの存在である。このことから、「これこれの特定の遺伝子があるから私は哲学科を志望しました」と語るならばどうであろうか。科学とは観察と実験を基礎に置く営みであるから、何かヒトの集団を統計して遺伝子と行動の関連を見つけられればこれは正しい理由になるのかもしれない。

ここから、生理学的にせよ遺伝学的にせよ、原因の背景にはある事実と別の事実の対応があるように見える。しかし、哲学科志望ということが遺伝子や脳状態の原因にはなるまい。それはなぜか。遺伝子ならば受精卵の時点で決定しているから、時間的により先である方が原因、より後の方が結果になる。脳ならば、逆にもし何かを意欲した後で脳神経の電気信号を変わるならば意欲が脳の原因となり、なんらかの電気信号の後で意欲が生じ、それが人類に普遍的であるならばその原因による結果であるとされる。始動因はもっと露骨に時間の前後を前提としている。こうであろうか。本当に? 本当にこんな単純に時間の前後に還元できるのであろうか?

さて、目的因は未来を目指している。未来におけるなんらかの結果を目指すことが原因であるとされている。Benthamの動機 (motive) も目的因に近い概念であろう。私は法学にはまったく無知であるが、「犯行動機」といったときにはたとえば「人間関係のトラブル」「生育歴」など過去の出来事を指すこともあるが、「犯行によって復讐を果たす」などの場合は犯行時点において未来の出来事が目的になっているのではないだろうか。

今後の課題

目的因はともかく、因果性については科学哲学を学ぶ必要があるだろう。

「ともかく」とされた目的因については、ある種素朴な考えであるが、Aristotelēsの『ニコマコス倫理学』のように、人間のあらゆる行為は「幸福」を目的としていると答えることができる。しかし、幸福は語りえない。幸福は世界の外側にあるから。世界の外側にあるというのは、幸福とは世界内の事実を指しているわけではなく、「世界外存在」としてのの世界全体が変容すること、バラ色になるということである。けれども、道徳ならばKantが明示化した「道徳の文法」によってかろうじて語りうるように思う: 「君の理性の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」。語りえないことについては沈黙しなければならない。ゆえに、人は道徳的にならなければならない。


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