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「君が偽善をなじるなら僕は悪にでもなる」という意見について


はじめに

本稿では, 悪人・罪人を自称することが徳を競うゲームにおいて最も有利であることを論証する. その際, 自称悪人は偽善が不可能であることを根拠として用いる. 中島みゆきは「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる」と歌ったが, ここ扱う思想は「君が偽善をなじるなら 僕は悪にでもなる」と謳うものである.


Image by Greg Montani from Pixabay

自称悪人が悪を行えば言行一致を褒められる

自称善人が悪を行った場合, 「善人を自称するくせに悪を行うとはなんたる偽善か」と責められる. 普通の人が悪を行った場合よりも自称善人が悪を行うほうが民衆の感情を害することが多い. 「人権派弁護士のくせにこんな失言をするのか」とか「慈善団体のくせにこんな不謹慎なことをするのか」とか, このような事例は枚挙にいとまがない.

自称悪人が悪を行った場合, 偽善を責められることは決してない. というのも, 偽善とは, その定義より, 口先で善を訴えつつ悪事を為すことであり, 自称悪人は口先で悪を訴えているのであるから, 自称悪人は必然的に偽善を行い得ない.

また, その悪行のゆえに責められたとしても, 「そうです, 私が悪いおじさんです」と白状すれば, むしろ悪人が悪を為すのは当然であり, 言行一致の徳を褒められる.

また, 悪事というものは自分で認識して行うものだけではなく, 自覚はないのに他人に糾弾される類のものもある. ハラスメントや差別などはこれに該当する事例が多い. あるいは, 差別される人間は差別主義者によって「存在そのものが悪」とされる. カフカの『変身』のように, ある日突然毒虫になるのである.

このような無自覚の悪を引き起こした場合, 自称善人は「善人のくせに無自覚の悪事に気づかぬなどなんたる偽善者か」と罵られる. 他方, 自称悪人は「悪人なのだから無自覚であれ悪事を為しているのは当然だ」として首尾一貫を褒めらえる.

自称善人が善を成しても「地獄への道は善意で舗装されていることを知らない脳みそお花畑の被害者憑依で自己満足だ」と批判されるかもしれない. 自称悪人はこれに対して「私は悪人なので地獄へ向かって舗装し, 脳みそにお花畑を咲かす愚行を為し, 被害者に憑依して自己満足する偽善を実行しています」と答えればいい.

以上より, 自称悪人が悪事を為した場合, 悪意の有無にかかわらず倫理学的批判・なかんずく偽善批判をかわし相手を論破することができる. ゆえに, 悪事を為す場合, 自称悪人の方が自称善人よりも倫理ゲームにおいて有利である.

自称悪人が善を行えば善行を褒められる

自称善人が善を行えば「善人だから善を行っているのは一貫している」として褒められる.

自称悪人が善を行えば「悪人なのに善を行うとは捨てたものではない」として褒めらえる. いわゆる「たまに良いことしたヤンキーが褒められる理論」である.

もしも「悪人のくせに善を行うとは言行不一致だ」と責められたなら, 「私は悪人なので言行不一致という悪を犯しているのです」と答えれば相手を論破できる.

もし「道徳の議論において相手を論破することばかり考えるなんて, そんな机上の倫理理論はけしからん!」と怒られたら「そうです, 私は悪人なのでけしからんのです」と答えればいい.

常識的に見て善い行為を自称善人が行ったとしても, 屁理屈をこねる道学先生から「君の行為は 実は 善ではなく悪なのだ」と非難されるおそれがある. たとえば自称善人が義務論者だった場合, その論敵は功利主義か徳倫理学に基づいて難じればいい. 相手が功利主義者だったなら義務論か徳倫理学で非難すればいいし, 相手が徳倫理学者の場合も以下同様である.

政治的には, 右翼に褒められることを言えば左翼になじられるのであり, 左翼に褒められることを言えば右翼になじられる.

しかし, 常識的に見て善い行為をしたのが自称悪人ならば「君の行為は 実は 善ではなく悪なのだ」とイチャモンをつけられたとしても「私は悪人なので 実の 悪を行うのは当然です」と返すことができる.

したがって, 善行を為すときにも自称悪人の方が倫理の土俵において有利であることが導き出せた.

原罪について

ふと思いついてしまったが, キリスト教における「原罪」の発想はこれに少し似ていないであろうか? 幸福な主人を道徳的悪とみなし, 不幸な奴隷たちが自分らを善とみなすのが典型的 ressentiment だとしたら, 今度は自分たちを道徳的に悪とみなすことで道徳的悪を自覚する罪人という道徳的勝者になることができる! もしかしたら後半部も Friedrich Nietzsche が『道徳の系譜』かどこかですでに言っていたかもしれない. 本当はきちんと確認すべきであるが.

宗教について

しかし, キリスト教の真の目的は道徳的勝者になることではなく, 救われることである. キリスト教は実は単純で, この倫理宗教を信じれば永遠の命が与えられ, 信じないならば永遠に地獄の炎で焼かれるという, ただそれだけの話であり, ここにおいて永遠の命を求めるという私欲はまったく否定されていない.

求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。(口語訳ヨハネ16:24)

したがって, キリスト教徒ならば道徳的勝敗など気にせず, ただ単に救いを求めて徳の道を歩むしかない. 『死にいたる病』の中で Søren Kierkegaard は「罪の対義語は徳ではなく信仰である」と言っていたと記憶している (手元に当該訳書がない). とはいえ, ただ絶望しているだけでは開き直っているだけではないか. なるほど道徳のゲームにおいて他者と卓越性を競うようなやり方が罪の対蹠点に位置するとは言い難い. しかし, 他人と競わず争わず, ただ純粋に信仰による善のために己の卓越性を磨くことに咎めるべき点はないと思われる.

自称悪人とは口喧嘩せず, ex–communicateするしかない. 突然フランス現代思想みたいな謎のハイフンを入れてしまったが, Thomas Hobbesの『リヴァイアサン』にも, 元来背教者はただ破門 = 「礼拝所からなげだす」だけで良かったのだと書いてある (水田洋訳『リヴァイアサン』第3巻第42章, 岩波書店, 1982年, 223頁. 原著は参照していません. ネット上の資料だと英語の綴りが古くて読めないしラテン語もできると言える水準にないので).

ゆえに, 前章までの内容はすべてさっぱり否定すべきである.

「私は悪人です」と答えるのではなく, 「私は悪人ではありませんが良心の自由に基づいて行動しています. 合理的に考えて明白な悪事を犯していない限り難癖をつけられる筋合いはありません」と答えるべきである.

しかし互いの偽善をなじり合い, いさかう倫理学のやり口を批判する私もまた他人を非難し論争をけしかけているではないか. 私も同類ではないか. オレは他人の役に立つ実践的な研究がしたかったから倫理学者を目指したのに現実じゃ机上の空論を振りかざしているだけではないか.

いつかもっと有徳になって立派なことが書けるようになりたい.

私たちの罪をおゆるしください. 私たちも人をゆるします.

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