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哲学的断片集 2: ナショナリズムと保守主義は別物, 他

経済的・精神的にキツいので今はまだバラバラの思考しかできません.


「そんなことする自由はない」と言うときの「ない」とはいかなる存在論に基づくのか

「ある」という言葉は多くの仕方で語られる. 自由が「社会関係の中である行為が許容されること」であるとしたら, 「自由がある」「自由がない」という言葉は「我々の社会規範はそれを許容していない」という意味になる.

語源とは何か

印欧語辞書の語源欄は祖語や借用元への参照を表示する.

日本語辞書の語源欄は日本語内部での他の単語との繋がりを表示する.

一番わかりやすい「語源」の証明は「この単語は私がこういう仕方で作りました」という史料が残っていることであろう. しかし「太陽がまぶしかったからこの単語をこのように命名しました」と言われたらどうすればいいのか. その場合でも, ともかく命名者は特定できたことになる. その歴史学的命題がここにおける語源の意味である.

「実は」とは何か

/ʒi.tsɯꜜwa/

「私は実は水槽に浮かぶ脳かもしれない」と言うときの「実は」とはどういう意味なのか?

絶対に確実なことは, 実は今ここに現象がある, ということである. それを超えたところにある「実は」とは何か?

映画『Matrix』では飛空艇からMatrix内部を覗き, 操作することで前者が「実は本当」だということを表していたと記憶している.

倫理学も同様であるが, いわゆる「倫理的直観」でも参照しない限り参照すべき現象がない. 「これは実は善だ」「それは実は悪だ」と言うときの「実は」とは何か? また, 倫理的直観を参照してしまったら今度は倫理の要件としての客観性が潰れる.

社会規範は記述倫理学の対象だとされるが, 個人の倫理的直観も記述倫理学の対象のうちへ溶解してしまう. 「そういう倫理観を持っていた人がいました」という史学的・誌学的な命題のどこに価値があるのか? Ich suche Gott!

指示はいかにして可能か

時間と空間を使って. なぜソクラテスが座っているときには「ソクラテスは座っている」という命題が真になるのに, 同じその命題が, ソクラテスが立っているときには偽になるのか?

今ここで起こっている現象に対して命題の真偽を判断することは難しくない. 「あの (the) 現在のフランス王はハゲだ」と言われたとき「あの現在のフランス王」なんて人は今の時点では存在していないではないか, と思い, そう応えることも容易である.


Image by Arek Socha from Pixabay

なぜ『ニコマコス倫理学』は教育の話で終わるのか

倫理学は超越論的である. たとえば性的指向が変われば世界が変わる. 具体例として物語を考えれば, ある人の性的指向が男性ならば最高のイケメンと巡り会える人生が最高の人生であり, ある人の性的対象が女性ならば最高にかわいい女性と巡り会える人生が最高の人生である, と言えるかもしれない. 性別なんてほんの一例で, 痩せた人好きの世界と太った人好きの世界も別の世界である.

性的指向は別として, 趣味嗜好には遺伝要因のほかに環境要因がある. 教育が価値観や道徳観は, 程度は教育学か心理学でも勉強しないとわからないが, たぶんゼロではなかろう.

道徳的善悪の判断は道徳観を参照して行う. その道徳観自体が教育等々で動いてしまうのなら, Wittgensteinの文字盤ごと動く時計の比喩のように, もはや「本当に善いこと」は自明でなくなる; その「本当」が創出されてしまうなら. 倫理学者の仕事とは, ある道徳観を植え付け, 道徳観が背骨となるその人の世界全体を形作る実技なのかもしれない.

ナショナリズムと保守主義は別物

この記事を読んで思ったこと. Ernest Gellner『民族とナショナリズム』とBenedict Anderson『想像の共同体』を (和訳で) 読んだことがあるので, 平均的な日本人よりはナショナリズムに理解があると思う.

「伝統を守れ」という思想を仮に伝統保守主義と呼ぶなら, それはナショナリズムとは違う. なぜなら, ナショナリズムは国民の一体性を重視するが, 伝統を守ることは少数民族の伝統や郷土ごとにバラバラな文化の伝統を守ることも含まれるから.

ナショナリズムは共時的な共同体思想であり, 見かけに騙されて通時性を重視してしまえばナショナリストの嫌う多文化主義と同化してしまう. 余談であるが「ナショナリズムの起源」は便宜上は措定できても実際は程度の問題なのではないかと思う. ネイションを社会の個々人がどのくらい自覚しているか, どれくらいの人々が自覚しているかということ. 「古代や中世にもナショナリズムはあった」という主張とナショナリズム論における近代主義がどちらも明白に事実に反することを言っていないとすれば, 程度の話で折り合いがつくのではないか.

ナショナリズムと強権も別物. ナショナリズム ≒ 右派 ≒ 非民主的という現実の現代政治の緩やかな傾向も, 論理的必然性はまったくないであろう. 言うまでもないことであるが, ナショナリスティックでなおかつ民主的であることは十分想定可能であるから. アメリカ合衆国などその良い例であろう.

医者は医術知識を使って人を殺せるが, 有徳者は倫理知識を使って悪事をなせるか?

徳倫理学の問うべき問いとは本来このようなものである.

さて, 有徳者を一度措けば, 倫理学者は倫理学知識を使って悪事をなせるだろう. 端的に言えば屁理屈を捏ねて自分を正当化する偽善をなすことに役立つ技術を身につけている.

ソクラテス的な知徳合一の問題はここに現れている. 明らかに技術・知識の有無と有徳性は論理的に独立である. 有徳者は倫理学者以上のものを持っている.

いや, 本当にそうだろうか? プラトンの対話篇では「悪事は本当は損なのだ」と主張されがちである. 前段落を「有徳者は倫理学者以上のことを知っている」と書き換えることもできる. もちろんそうすれば直ちに「知っていて悪を為す」という例が出てくるに違いないが, その議論はもう有名なのでよかろう.

もっと重要な問題は, 行為と徳をどう分けるかということである. 有徳者が倫理学者よりも知識以外の点で何かの特性を多く持っていたとして, その特性の存在とはなんであり, なぜ価値を持つのか?

ある個人の諸行為の集合からその人の personality, —いやむしろ character と言うべきかもしれないが— を判断すること. 徳はこれ以外から測れるのであろうか? しかしパーソナリティ心理学はたんなる事実の記述であって再びそこから価値は引き出せないのでは? 価値は功利以外で定義可能なのか? あるいは偶然的特性ではなく人格の価値を語るためには義務論的自由意志が必要にはならないか?


2023-03-29
BGM: 5lack「Weekend」

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