刑罰廃止論草稿第2版 第1部 刑罰抑止力説批判
§ 1 消極的論拠: 刑罰の必然的必要性は導き出せない
刑罰は必要不可欠ではないことを、以下に示す。これにより、「刑罰は有用ではあるが不可欠ではない」ことを認めない限り、刑法学新派は、今日この瞬間をもって歴史を終える。
§ 2 刑法新派反駁
新派を反駁する。なぜ刑罰は必要なのか。刑法学新派の考えからすれば、その答えは「予防」、いわゆる「抑止力」であろう。しかし、たとえ刑罰が予防に役立つとしても、刑罰以外のものも予防に役立ちうるのだから、刑罰の必然的必要性は提示できない。
予防は一般予防と特殊予防に分かれる。特殊予防とは、罪を犯した人物、つまり犯人が再び罪を犯すこと、すなわち「再犯」の予防である。一般予防とは、社会の構成員一般に対して犯罪を行うことを思い止まらせる、いわゆる「見せしめ」である。
§ 3 刑罰は特殊予防のために不可欠ではない
まず、特殊予防から検討する。本稿に対する論敵は「刑罰は必要不可欠である」というものであるから、「特殊予防のために刑罰は必要不可欠である」という説を論駁する。
特殊予防の手段が刑罰である必然性はない。まず、刑罰によって犯人の再犯を防ぎうることは事実であろう。けれども、当然のことながら、その手段は刑罰ではなくても構わない。
§ 4 私が言いたいのは「貧すれば鈍するから貧しさをなくそう」という話ではない
「貧すれば鈍するから貧しさをなくそう」と言いたいのではない。簡単に思いつく例は、「貧しさゆえに盗みを行った者は貧しさを脱したら盗まないであろう」という説である。つまり、私は『徒然草』のようなことを言いたいのではない。
しかし、これでは反対に「貧しさをなくせば犯罪がなくなる」ことは必然ではなくなり、結論が破綻してしまう。
§ 5 刑罰が特殊予防に必要不可欠ではないことの証明
たとえばAさんが他者を殺し、その特殊予防を考えるとする。
この場合、第1に、死刑はAへの特殊予防として必要不可欠ではない。なぜなら、終身刑で代替できるからである。刑務所内で再犯が起こせないことは刑務所が刑務所であるための前提である。
第2に、終身刑以外の諸刑罰は、たとえば苦痛や教育によって特殊予防を試みるものであるが、これは終身刑で代替可能である。
第3に、終身刑についてであるが、これは犯罪者以外の人間が治安向上を図ることによって代替できる。つまり、殺したくても殺せないような社会を作るということである。「殺したくても殺せない社会を作られること」は刑罰なのであろうか。刑罰とは報いであるが、これは社会が勝手に変化しただけであるから、Aへの刑罰ではない。たとえば「食べたくても食べられない社会」というのは単なる苦境であって、たしかに無辜の民が苦しんではいるが、罰せられているわけではない。
以上により、「刑罰は特殊予防のために必要不可欠である」という説は最終的かつ不可逆的に反駁された。
§ 6 刑罰は一般予防のために不可欠ではない
一般予防の場合はどうであろうか。人格改造計画を考えよう。
「人格を改造して犯罪を犯せなくする」場合を検討する。「人格を改造する」とは、たとえば脳を改造したりドラッグを投与したりして犯罪を犯すことを精神的に不可能にすることである。つまり、「善人」の人格を作り出すことである。
このとき、この刑罰が特殊予防に必要不可欠でない理由は、まだ犯罪を行なっていない人がまさしく「予防的に」人格を改造して犯罪を自ら犯せなくすることが考えられるからである。この場合、自発的なのだから、刑罰ではない。
人格改造が自発的ではなく、すなわち強制的であるにもかかわらず、刑罰にならない場合もふつうに考えられる。たとえば出生すると同時に —もちろん胎児のときでも同じであるが— 強制的に犯罪が不可能になるよう人格を改造する法律があったならば、それは刑罰ではない。というのも、刑罰とは犯罪に対する暴力であるならば、これは「暴力」ではあるものの、無辜の民に暴力を振るっているだけであって刑罰には該当しないからである。
この場合、刑罰ではなく暴力としての人格改造によって完全な一般予防が実現するのであるから、刑罰が一般予防のために必要不可欠であるという説は最終的かつ不可逆的に反駁された。
§ 7 予防を根拠とする死刑存続論、功利主義、刑法学新派はきょう一つの歴史を終えた
刑法学新派は今日この瞬間をもって歴史を終えた。なぜならば、ここまでの論述により、刑罰は予防のために必要不可欠であるという説は最終的かつ不可逆的に反駁されたからである。もっとも、「必然的に不可欠というわけではないが現実的選択肢としては有用である」という説は生き延びているが。
第1版 2022-10-20
第2版 2022-10-29
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