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アトランティスロック大陸 6 (1982~2001)

風の記憶、岩の夢
My United Stars of Atlantis

谷口江里也 著
©️Elia Taniguchi

目次
第49歌 Avalon ブライアン・フェリー 1982
第50歌 Sunday Bloody Sunday  U2 1983
第51歌 Don't Give Up  ピーター・ガブリエル 1986
第52歌 Luka スザンヌ・ベガ 1987
第53歌 On your Shore エンヤ  1988
第54歌 Hymn of the big wheel  マッシヴ・アタック 1991
第55歌 Scorn not his simplicity  シニード・オコーナー  1994
第56歌 Yellow コールド・プレイ 2000
第57歌 American Triangle エルトン・ジョン 2001
あとがき


第49歌 Avalon     1982   ブライアン・フェリー

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もうパーティは終わった
とても疲れた僕の目に
どこでもない場所から抜け出してくる君が映る
その動きだけでよくわかる
会話をしなくても
何も説明してくれなくても
アバロン

誰でも、自分にピッタリ合った表現方法やテーマを見つけ出すのは難しい。他人の目にもハッキリとそう映るほどとなればなおさらだ。だが、デビューした時点ですでに大成しているような早熟の才能がめまぐるしく新陳代謝を繰り返すロックの世界にあって、ブライアン・フェリーのように、ニアミスにニアミスを重ね、ロックシーンに登場してから十年以上も経ってようやく核心に辿り着くアーティストも珍しいかもしれない。

ブライアン・フェリーの場合、ロキシー・ミュージックというバンド名からしてすでに何となくミスマッチだったが、しかし、太陽を取り巻く惑星がたまたま一直線に並ぶように、ロキシー・ミュージックを構成していたすべての要素が、ブライアン・フェリーという奇妙なキャラクターの周りで黄金比を見せて勢揃いしたかのような完成度を持つアルバム『AVALON』が生まれた瞬間、ロキシー・ミュージックという名前はたちまち、まるでこのためにあったかのような不思議な輝きを持った。

機が熟すというのは、まさにこういうことをいうのだろう。とにかく『AVALON』では、サウンドや歌詞はもちろん、アルバムのジャケットやアルバムに大きく書かれたROXY MUSICの書体にいたるまで、すべてが奇跡的な一体感を見せて、AVALONという一つの幻想的な空間を構成していた。
もちろんブライアン・フェリーは、その空間の主として空間全体を支配していたが、かといっていつもの、どこか妙に煮え切らないダンディズムのようなものはそこにはなく、彼の声とキャラクターが、AVALONという空間を構成するための不可欠な要素として、静かで透明感漂うサウンドの中にナチュラルに昇華されていた。

AVALONとは言うまでもなく、イギリス人の美意識の根底に深く根を下ろしているアーサー王伝説に登場する幻の理想郷で、静かな湖上のどこかに霧に包まれてある島だということになっているが、もしかしたら、このアルバムの成功の最大の立役者は、このAVALONというコンセプチュアルイメージの設定そのものであったかもしれない。
アルバムジャケットには、中世の鎧を着たアーサー王らしき人物の、ほとんどシルエットのような後ろ姿があり、彼が見つめる霧の彼方には、夕陽の残照が空をほのかに染めている。まるで映画のラストシーンのようだが、伝説によれば、最後の決戦で深い傷を負ったアーサー王は、人知れず静かにAVALONに還って行ったという。アルバムにはどうやらその情景が描かれているように見える。
どちらかといえば、かなり時代がかった設定だが、しかしこの物語性の大きさが、ロマンティックでダンディーでデカダンスの香りを漂わせながらも、どこか生っぽさが気になるブライアン・フェリーの性癖のようなものを、実にうまく浄化するのに役立っているばかりか、アルバム全体を幻想的なベールでおおう役割を見事に果たしている。繰り返すが、なにしろAVALONは、永遠の理想郷を追い求めながらも運命に翻弄され続けるアーサー王が最後に向かう場所であり、ヨーロッパ人のロマンチシズムの問答無用のシンボルなのだ。

サンバが君をどこでもない場所から連れ出すとき
背景はぼやけて焦点を失う
そう、目に映るものは刻々と移り変わるけれど
君はそれには気づかない
アバロン

余談だが、私はこのアルバムが出る二年ほど前、スペインと日本との間を行き来しながら、私にとっての最初の本を創っていた。それは19世紀のフランスのロマンチシズムを代表する画家であるギュスターヴ・ドレに関する本だったが、その本で私はドレを、歴史に埋もれた一人の版画家としてではなく、神曲や聖書のような、ヨーロッパ人の精神世界に深く影響を与えている文学の世界を丸ごと視覚化するという壮大な野望を抱いて今日のヴィジュアル時代を先駆けた、あまりにも進んだ感性を持ったプロデューサー的イメージクリエーターとして紹介しようとしており、巻末には『時代を行き過ぎてしまったスピードワゴン」というエッセイを書いたりもしていた。つまりある種の再構築的(リコンストラクション)な手法をとろうとしていたのだが、『AVALON』にはそれとなんとなく相通ずる感覚があるように思えた。

また、19世紀当時、フランスばかりではなくイギリスでも大変な人気を持っていたドレは、当時のイギリスを代表する詩人の一人テニスンが、アーサー王をテーマにして書いた詩集を幻想的な挿絵で飾った作品を創ってもいたが、私は『伝説のアバロン』と題し、先の手法をさらに押し進めて、ドレの版画を大量のシーンに分解して、断片的な言葉とともにプロジェクターでマルチスクリーンに投影し、それに合わせてロックバンド『吉野大作とプロスティチュート』がライブ演奏をするという、ほとんど脱構築的(デコンストラクション)なメディアミックスショーを創ったりもした。

日本を離れてバルセロナやイビサというコスモポリティックな場所に住み、様々な国籍の連中と身近に接するなかでヨーロッパの文化の層の厚さを思い知らされた私は、そのころ、全く新しいものを探し求めるより、古いものの中に秘められた新しさを見つけることに強い関心を持ち始めていたが、『AVALON』は、そんな私の気分的な波長にもよく合った。

ともあれ、アーサー王の物語に直接的にではなく、その根底に漂う意識のゾーン、あるいはそれにつながるムードに焦点を当てたように見えるこのアルバムによって、ブライアン・フェリーは、ロックというよりむしろデカダンスやロマンチシズムのようなヨーロッパの伝統的美意識を前面に押し出して初めて彼の個性が生きるという客観的現実にようやく辿り着いたようにみえる。そしてそう思ってみれば、ヨーロッパ系のミュージシャンには、クイーンやデビッド・ボウイやロッド・スチュワートのように、それぞれ表現の仕方は全く違うが、実は深いところでそのような傾向を持つ者が少なくない。
例えばクイーンの『ボヘミアンラプソディ』には、労働者階級とブルジョワ階級とが完全に断絶した階級社会であるヨーロッパの、絶望のようなものが体の中に深く遺伝子のように組み込まれてしまっている階層の若者の、そしてそこから意識的に脱落することによって抜け出ようとする者の、哀しみと強さのようなものが、自覚と美意識のようなものが溢れている。
またロッド・スチュワートは、ニューヨークのホームレスの歌のようなトム・ウエイツの『Waltzing Matilda』を、ヨーロッパのダンディでデカダンな美意識で見事におおうことで、それを美しい「彼の歌」に変えてみせたが、そこには、生身の自分をさらりといなすもう一人の自分の、いかにもヨーロッパ的な表情が見える。

つまり、ヨーロッパに住んでみてはじめて分かったことだが、ヨーロッパでは喜びも美も夢も、長い歴史を経て何層にも積み重ねられた柔らかな絶望の上に咲いている。そこには遠い遠い過去につながる、ある意味では成熟した時間が静かに大河のように流れているが、よけいなことを考えずにその風景に馴染んでしまえば、そこでの暮らしはむしろ快適といえなくはない。ただそれがいやなら、過去の優れたアーティストたちがそうであったように、万人の中のたった一人のはみ出し者として自分自身の美を、遠い時間につながる虚空に職人のように紡ぎながら、無頼のアウトサイダーとして生きるかしかない。少なくともそんな孤高の構えのようなものが要る。その結果、万人に受け入れられるスターと成ったとしてもそれは同じだ。ブライアン・フェリーもまた、自分自身の中のヨーロッパを自覚することで、彼に固有の表現のゾーンを見いだしたように見える。

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