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自分が幸せになることを阻むもの

いつも、いつも、いつも。
ひとみちゃんから言われて
愕然とすること。

「人は、自分の意思で考え、自由に行動できるはずなのに
どうして、自分が幸せになる方向に向かって、
駒を進めることができないのでしょうか?
この能力をみがくことが、
全ての人にとって必要な教えであり
学びだと思いませんか?
全ての人が
トライアンドエラーをしながら、この世を生きて学んでいることは
自分が自分で幸せになる方向に進んでいるかどうか、という部分です。
私が教えて、手伝っているのは、こういうことです。
学んでも幸せになっていかないものを、崇めて縋っても意味はないですよと
私がばっさり結果重視で切り捨てるのは、そのためです。」

金子ひとみの言葉より


やっぱり、あのサラリーマン時代に天から降りてきたあの言葉は
私が欲しかった言葉だった。

月日めぐり、
天から降りてきたかのような人が、こうして目の前でわたしに同じ言葉を繰り返しているのだ。

“ふと思い出した出来事。 30歳を少し過ぎた2011年。 地震が起きた年のこと。 当時私は会社員で、港区にある高層ビルの片隅で仕事をしていた。 ある日、クタクタに草臥れた終電間際の帰り道。 山手線でふと、頭の中に声がした。 「こんなに恵まれた環境にいて、どうしてやりたいことをやらないのか」 はっきり声がした。 それは、お昼休みに読んでいたWEB記事の、 マザーハウスという会社の社長の言葉だった。 お昼休み。こんなふうに生きてみたい。そう思っていた。 けれど、やりたいことなんて、そうそうないし、できるはずない。 そもそも会社を辞められない。 そう思って打ち消した。 あの声を聞いたあとも私は「やりたいこと」をしっかり見つめることもせず なんのために生まれてきたのかにも対峙せずに爆走した。 なんのために生きて 私の能力、わたしのいのちは、 いったい、この地球に何を残せるのか? 全ての選択をするときに 私は 私がどう地球と生きていきたいのか コミットすることもせず ただながれるように 嫌われることだけを恐れて 自分の姿を直視することもせずに 逃げ惑うように他人から誘導されるままに 生きてきた 私はいま こんなに恵まれた環境にいて、どうして自分がやりたいことをしっかりやらないのか まじでもういい加減、行動するとき 腐った肥溜めかき混ぜてる場合じゃない 行動からしか、何も変わらないことには気が付いている。 自分が、ちゃんと自分の人生の舵を取るんだよ。”

トライアンドエラー。

プランをしいて、やってみて、どうだったの?をふりかえり、
では、どうしよう。を次につなげる。

それがほんとうにできてなかったよなあ。

そして「世の中には悪い人なんていない」と妄信して

今いる場所を選択した自分を「どうだったの?」をふりかえることを、かっとばして。

怖いから目を閉じ、耳を塞いで、そのまま進むことを選んできた。

自分を客観視することなく。現状維持というコタツに潜り込む。

そのコタツは、入れば入るほどに身体を蝕むコタツなんだけど

ボロッボロになっても「変化」を恐れて「大丈夫。このコタツが心地いい」と、自分に言い聞かせていた。

夜も眠れないし、恐怖で身体がガッチガチになっていたのにもかかわらず。
ささくれをむしって流血するほどの精神状態であるのにもかかわらず。

それに「気が付かなかった」のではなくて
本当に「よく見たら」それに気がつけるのに
変化をおそれて
見たくないから「見ないフリ」を選ぶ。
よく見て、認めてしまうと怖くて怖くて、壊れてしまう、と誤認してる。
でも、でもだよ。

そこには

「自分を幸せにする」

という大事な要素をかっとばしている。

じゃあ、どうやったら冷静になれてたんだろう。
わたしは結局、森のメンバーに引き揚げられたから。と思ってる。

でも、この先は。自分で自分の人生の舵を切り、
自分で選択を続けていかなくてはならない。

それは、どうやって?と思うけれど

「智慧をつけること」だと思う。


もっと具体的に言ったら



自分がどんな世界で生きていきたいのか
どんな世界で生きていたら自分が幸せなのか


いましていること、選んでいることは
本当にこの先に自分が幸せになるために必要なのか?


どうしてこれを今やっているのか?
自分が認められたいからではないか?
自分の飢え乾きを解消させたいだけではないか?
自分が愛されないからだけではないか?

ひとつひとつを自分で調べる。慥かめる。
人にすぐ聞かない。
人にすぐ頼らない。
事態が詰んでもパニックになってすぐ人に相談しない。
自分で解決できるところまでして、
できない。と思ったら人に相談する。


パニックじゃない時に、パニックになった時のことを
きちんと自分で俯瞰して、問題解決方法を考えてみる。


一回立ち止まって考える。
「この動作はなんのために何を目的にやっているのか」を考える。


盲目的に目の前の行動を選択しない。
客観的分析もしないで、結論をださない。



自分が幸せになることを阻むもの。
それは自分。


自分を幸せに導くもの。
それも、自分。




間違っている治療法って結局

本当に自分で自分を改善しようと思っていなくて

実は自分で「誤魔化してほしい」

「改善する努力しないで何とかしたい」

と願っていて、

それに見合った方法を自分で選んでいるだけ。

で、おかしいなとわかっていても
「自分で頑張りたくない」から、そのまま違和感を飲み込み続ける。

自分の人生のクオリティの責任は、自分の意識と現実における努力である 

という基本ルールから逃げているだけなんだよね。

金子ひとみの言葉より


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