見出し画像

142 学校祭だって個別最適な学びと協働的な学びの射程圏内だよね?

僕にとっても、とても感慨深い時間でした。
今年は生徒会から「ライブ感」というコンセプトでやりましょう、とのことだったので、サイリウムなど光り物を手に持って振り回したり、「小さな恋のうた」をバンド演奏に合わせて歌ったりした。全校生徒が席に座らず密になってうじゃうじゃしながら楽しんでいる姿が印象的でした。とても良い表情をしている姿を見て、これまでの苦労がすべて吹っ飛びました。

僕が赴任した頃は、学校祭という名の学習発表会でした。赴任してまず考えていたことは「学校祭を変えたかった」ということだった。赴任して3、4年目はたまたま生徒会担当(自動的に学校祭の全体統括にもなる)になったことと保護者がいないコロナ禍のアドバンテージをもらえたことで、少しずつ生徒たちの心が解放されるプログラムづくりを進めることができた。
当時、僕が提案しようと思った学校祭の目的は、次の(1)〜(3)でした。
(1)さまざまな文化的活動を通して個性を伸ばし、自主性、創造性を高める。
(2)一人一人が人間的な触れ合いを深めながら、目的に向かい協力してやり遂げることにより「頑張ってやりきった実感」や「誰かの役に立てた実感」を経験し、責任と協力の態度を養う。
(3)人前で発表する能力を育てたり、他者の発表等を見たり聞いたりする際の望ましい態度を養う。

「個性」「自主性」「創造性」「人間的な触れ合い」「頑張ってやりきった実感」「誰かの役に立てた実感」といった情景を、同僚と共有したかった。当時を振り返ると、「人間的な触れ合い」「頑張ってやりきった実感」「誰かの役に立てた実感」といったギュッとした熟語を使わずに噛み砕いて丁寧にイメージを共有したかったのだと思う。けれど、この文言は日の目を浴びることはありませんでした。
過去の記録を見ると、そもそも当時のうちの学校には、総合的な学習の時間も体育祭も学校祭にも話し合い活動がほとんど位置づけられていなかったようです。プログラムの順番を考える作業も生徒会の役割になり、裁量権が与えられ流ことになったことを伝えると、「先生、そういうことがしたかったんですよ、僕たちは」と声を出して喜んでいる姿が目に焼き付いています。
コロナ1年目は、日本各地で音楽ライブやフェスが中止になっていたこともあって「音楽フェスのような雰囲気をつくりだしたいね」ということになり、たとえばライブのチケットのようなものを発行してみんなに配ったり、チケットの代わりになるリストバンドをみんなに手首につけてもらうなどはどうか?というアイディアが出ていました。この学校で、どこまで実現できるか、僕らのネゴシエート勝負が始まったのでした。管理職や同僚と何度も何度も擦り合わせをしてきました。生徒に「”10提案して3通す作戦”でいくからね!たくさんできないことはあるけれど、少しずつできることを増やしていこう!」と生徒会の子たちと話していたことがとても懐かしいです。

「コロナ禍で生徒は我慢を強いらているので、どうか学校祭だけは」「コロナ禍で保護者が来れないので、どうか子どもたちの思いを実現させてもらえませんか」とたくさん交渉したと思う。
コロナ2年目は「和」がテーマだった。落語風生徒会長挨拶と学校祭公式グッズを作りたい、を実現することが命題だった。この実現も本当に大変だった。2年間を通じて、有志発表(誰とメンバーを組んでもよくて、ダンスや歌などをステージで披露できる)に出られる人の基準を低くしたことと衣装の制限を少しだけ緩くしたことだ。これまでは、夏休み明けのオーディションの日に、ほぼ完璧なものを披露できないと出場停止になってしまっていたが、僕がついてからはグダグダでもいいからオーディションに参加してくれたらOKにして本番までに練習するように少しだけサポートしてあげて、当日ステージで発表する人を増やしていった。

今年は装飾班の担当でしたが、僕が生徒会担当だった頃の学校祭を知ってる子たちが中3にいて「あの時のような盛り上がりを自分たちもしたい」と言っていて、そのときの精神が受け継がれていきました。そして、今日の学校祭で普段あんなに大人しい子たちが、楽しそうにしていて、子どもが子どもらしい表情を過ごしていて、僕の見たい姿がこうやって目の前に現れている気がしました。僕一人の力だけではないですが、6年間がんばってきたことが報われた気がして、何度も何度も泣きそうになってしまいました。