31 数学と美術と体育の授業は似ている
今日は午前中に大学のゼミ仲間と今月の振り返りをして、午後は初任校と2校目でお世話になった先生に相談事をした。家には誰もいなかったのに、たくさんの人とおしゃべりしたな。みんな年齢がミドルに突入し、若手教員の成長を願いながら関係性を紡いでいっている話が印象的だった。それを聞いて、学校現場はまだまだ捨てたもんじゃないな、と安心した。
ここ数日、いろいろな方と話していて感じていることは「数学と美術と体育の授業は似ている」ということだ。「できる」「できない」がすぐにまわりにバレてしまう。そして、「どうせ、やったって…」となりやすい。
だから、僕はこれらを対比しながら、授業を考えることが多い。体育だと跳び箱の段数や技の難易度は、個人の能力に応じて課題を設定するのが当たり前。それなのに数学授業では、それが当たり前でなかったりする。最初から跳べないのを分かっているのに平気で「23段跳びなよ」と言っていたりする。美術では、粘土で手をつくっている生徒に「手の構造はそうじゃなくて、こうだよね」と生徒の技能の不十分さを伝えなければならない場面がある。けれど、いつもいつも指摘されている生徒からすると、美術は苦痛でしかない。だから、「音楽を聞いてそれを絵で表現してみよう」「ヘンな生き物をつくってみよう」「自分の性格・特徴を分析して、それを表現してみよう」などの課題を与え、「うまい・下手」という言葉かけから自由になれるよう工夫しているそうだ。果たして数学授業にはそういう工夫をしている先生はいるだろうか。
僕が話したい人と直接お話すると、当たり前だけれど聞きたいことが聞ける。大きな研究会では話題にならないけれど、話したいことがある。今日はそれが得られた。聞いても「成長した」とは言えないけれど、次の気づきにつながる何かを得られたと思う。
またね。