見出し画像

184 音痴な子の合唱や運動音痴の子の体育祭での気持ちをもっと考えた方がよくない?

大学の数学教育ゼミの集まりでした。教授は退官してしまいましたが、年1回20名くらい集まって、あれこれ話をしています。

今回は珍しく同期とゆっくり話しました。当たり前ですが、みんな同僚との関係性で悩んでいる。

みんなの話を聞いて痛感したのは「みんなで意見を持ち寄ることの大切さ」でした。おのおのが見えている現象を共有する場がないから、事象をちゃんと分析できずにうまく変わることができないのだろう。若くても優秀な眼を持った人が「こう見える」と言って、みんなにもそう見てもらう必要があるのではないだろうか。

また、同期とこの本に書いてあったことを話した。

音痴な子の合唱や運動音痴の子の体育祭での気持ちをもっと考えた方がよくない?と。

野口晃菜さんが先日Twitterでこんなふうに言っていた。
(引用開始)
「何も知らない人」=「なにも知る必要がない人」こそが、「当事者」や「当事者家族」にだけ「壮絶」を背負わせてきた構造を維持することに無自覚に加担してしまっているにも関わらず、その人たちが差別を正当化することにつながってしまう。
(引用終了)

スープカレーを食べながら、みんなの話を総括していたら、この言葉を思い出していた。僕だって、見えないこと、気づかないことはたくさんあるから、やっぱり「みんなで持ち寄る」場が重要だと感じたし、いろいろなことを学んで、苦しみや痛みを感じている子どもたちをキャッチできる感度を絶えず鍛える必要があると思う。その能力を個人にだけ責任を追求しても意味がないから、やはり校内研修で組織ぐるみでやらないといけないと思うんだよな。